わたくしにシド・ヴィシャス風はいたんだろうか破滅的にと愛せし人は (竹花サラ)
シド・ヴィシャスはロクにベースも弾けないチンピラで暴れん坊でヤク中。主に”パンク”を音楽とファッションを巻き込んだムーヴメントにしたい側の思惑によってセックス・ピストルズのメンバーに抜擢され、結局やぶれかぶれの果てに19歳で死んでしまいました。音楽家としてはほとんど何も残していないシドでしたが、あの時代の”無軌道な若者”のひとつの典型として存在を世に残しています。破滅的、そう破滅的ですよね。でも、そんな危険に焦がれる気持ちを若い頃の特権として詠んだ歌。疑問形が読む側に色々なものを投げかけてきます。
父の略 憲兵時代、経理事務、尺八演奏、卓球好む (藤田くみこ)
憲兵といえば平時は軍の中の警察として軍人を取り締まりましたが、戦時中は特高警察と共に国民に恐れられておりました。若い頃は”鬼”であった父の戦後は、真面目でややピリピリした所もあったであろう経理のサラリーマン、定年してからは趣味に生き、尺八と卓球で活き活きと過ごしていた。”職”から離れ、ようやく自分自身になれたのか、徐々に人として優しく柔らかくなった様子が伝わって暖かな気持ちにさせてくれます。
木の陰に葉は落つるとも木の陰に限界はなく叙情するのみ (辻和之)
「叙情するのみ」はぁあ・・・、もう一回「叙情するのみ」うぅぅ・・・。何て素敵な言葉、短歌をやっている、いや、表現と何らかの形で関わっている人には、とにかく内に入れて反芻して欲しい言葉です。表現は孤独、とかそういう陳腐じゃない。詩歌に生きる者は皆”陰”を持っている。何か外的な影響によってそこに一瞬の変化はゆらぎはあれど、個の中に深く色濃く存在する陰は不変であり無限である。この意味がわかりますか?表現に悩んだらこの歌を思い出そうと思います。
春の日に善人ばかりが集まつて年次総会が開催される (桑原憂太郎)
「善人ばかりが集まる総会」って何かいいなと最初思いましたが、さにあらず。人って不思議なもので、多く集まれば何かを提案することよりも、如何にその場で面倒な事に巻き込まれずに波風を立てず立たせず、多数に迎合して事なきを終えたい気持ちで集団を形成してしまう。そうして当たり障りのない事が決まり、誰もが緩い安堵と共にその場を後にする。「善」ってなんだろう、作者の疑問は深いけれども、その「善」の中で「善」の一部としてのっぺりと生きている私達。
やはらかき日差しを浴びて紅さうび抒情詩のごとき風が触れゆく (谷垣恵美子)
実は「紅さうび」が何か分かりませんでした。でも、何かこの歌の爽やかで、切ない余韻を残して流れゆく旋律に惹かれて調べてみたら「紅さうび」とは薔薇のこと。あぁとても良い。やわらかい日差しを浴びて赤をきらめかせる鮮烈なバラ、その強い花弁と棘のある枝に、風が絡みながら流れてゆく。作者はそこに音楽を聴いています。読者も詠んだ歌の言葉の流れから、美しく微かな儚さを孕んだ音楽を聴くことが出来ます。風が触れる、この一言が際立たせる優美と繊細。
すずかけの木にブランコは吊るされて母の子供のころ揺れてゐる (來宮有人)
「子供の頃の母」ではないんです「母の子供のころ」なんです。言葉を並び替えただけのように思えますが、この違いは大きい。目の前にあるブランコを通して作者は、そこに「母」という身近な人の思い出を見ています。楽しそうに、嬉しそうに、ではなくただ揺れている。そこにどのような想いが浮かぶでしょう。読む人の心に浮かぶのは憧憬か感傷か、イメージの輪郭が読者に委ねられる部分が大きいので、この歌はどのようにも読めます。想像が入り込む余地がたくさんある歌ならではの抒情が胸にきますね。
人は皆遊びせんとや生まれける男の子も女の子も手つなぎ唄う
人は皆戦せんとや生まれける相手も見ずにボタン押すのみ (藤倉和明)
有名な『梁塵秘抄』のフレーズを配した2首。「子供」と「大人」を対にした作品ですね。子供同士だと初対面の知らない子とでも普通におしゃべりして仲良しになれるのに、どうして大人は知らない相手に敵意を抱いてしまうのだろう。国対国もそうですが、今、私達の周囲にはこういった”争い”が身近にあふれかえっております。現実もそうですがネットは特に酷い、知らない人に対して攻撃的になる人の何と多いことか。誰もが”そうでない本質”を持っているはず、けれども憎しみは巨大になって拡散している。どこかでハッと気付くことが必要ですね。遊びをせんとや生まれける。。。
高きから花は見るべし空にある鳥や蝶へと花は咲きたる (野上卓)
花を見るとき、それが高い木の枝にあるとき、私達は決まって見上げます。そうしないと高いところにある花を愛でることはできないからです。しかし、想像を巡らせましょう。視点をぐぐぐーんと高い所に持って行けば、空が見える。空はただ青くあるだけだけれども、その中を風に乗って飛ぶ鳥や蝶の姿を浮かべましょう。花はそこにも咲いている。「鳥や蝶へと花は咲きたる」には、もっと色んな読み方がありそうで何だか楽しい。西行を思わせるスケールの大きな歌。
橋の上で今日も女が聖書売るそば通るとき息を止める (いなだ豆乃助)
どこか異世界に迷い込んだような日常の光景というのがあります。たとえばいつも通る道の上に、ちょっと異様な存在感を放つものが突如現れてそこに居座った時。昔むかしの昭和の時代には、そういった人がたくさん居たんですよ。その頃は怖かったけど、あの人達は今どこで何をやっているんだろうと、ふと懐かしく思うこともあります。いなだ豆乃助さんのこの歌、ちょっと不気味だけど、やっぱり懐かしい感じがしますね。息を止めて通り過ぎるとか、やっぱりやりましたよね・・・。
時間ごと消え失せたのか真つ白いはまなすの咲くバス停留所 (屋中京子)
5・7・5・7・7・という文字の配列を使って訴えられるべきことの最たるもののひとつに「幻想」というものがあると、私は常に思っております。短歌が幻想を伝えなくなったら、それはただの「上手い事言う定型」でしかない。歌の中にあるそれは、今の時代ちょいとばかり危機に晒されていると感じることもありますが、こういう歌をたくさんの中からふっと拾うと「あぁそんなことはない、ここに幻想があるじゃないか」とホッとするのです。そのままぜひ読んでください。「時間が止まったような」という表現から一歩踏み込んだ「消え失せたのか」から脳内にドバッと、しかし静かに拡がるこの”幻”に溺れましょう。