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Channel: アンダーカレント ~高良俊礼のブログ
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来し方に黒き海あり~やまとうた歌会3首~

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【波】

.来し方を思えば黒き海ありて破壊衝動波間にも見ゆ

 


【日/陽】

希死念慮ゆるゆる持てる頭(ず)を越して原稿用紙に降るよ秋の陽

 

 

【メール関連】

「ささやかな幸せならぬささやかな不幸もある」と書いて送信

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大変ご無沙汰しております。

 

 

 

体調が悪かったり、諸事忙しかったり、書き物が溜まっていたり、うねりまくっている日常を何とかやりこめております。

 

ブログの更新は不定期になりますが、今後もよろしくお願いします。

 

あー、なーんにも考えず、スコーンと短歌とか音楽のことを書きまくりたいぃ・・・

 

 


あちこち(浦上~龍郷編⑦)

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「ねぇ俊礼さ~ん、続きは書かんの~?」
 
「ん?続き??」
 
「ほら、龍郷に探検に行った時のアレよ。何か屋入で止まってる~」
 
「おぉ、そうだったか。いやもうあれやこれや書きまいなのが多すぎてすっかり忘れておった」
 
という訳で・・・。
 
 
もう一年近く前の『あちこち(浦上~龍郷編)』の続きです。
 
龍郷町戸口から芦徳~屋入と北側をぐるっと回って我々は、今度は役場前交差点から龍郷湾南側のコースへと車を進めます。
 
目指すは龍郷町の中で”本龍郷”と呼ばれている龍郷集落。
 
今、大河ドラマ『西郷どん』ですっかりおなじみの、西郷隆盛の奄美大島での滞在先として、この地に居を構える龍家の娘の愛加那さんと、夫婦として過ごしていたところです。
 
「え~と、本龍郷といえばやっぱり龍家だから例の仏像墓には挨拶行かんといかんだろうね」
 
とか何とか言いながら走っていたそのとき、あ、何か井戸があるよ。
 

 
これすっごい古いね。もちろん今は使われてないようだけど、何だか風格を感じる。
 
 
 
 
この日は小雨が降っておりましたので、普段は水の中にいるイモリも出てきて、ここでも2,3匹のそのそと歩いておりました。かわいい。
 
で、地面をよく見ると、大分古くはなっておりますが、海岸によく落ちている珊瑚の破片は散りばめられております。
 
珊瑚の破片というのは、特殊な霊力を持つとされ、昔は墓地や神様を祀る場所の地面に散りばめられておりました。で、何でこの井戸の周りに?ということですが、井戸というのは集落にとって命の水を提供してくれる神聖な場所。こうやって大事にされてたんですね。
 
「この井戸がこうして埋められずに残ってるって事は、今も集落の人達にとっては特別な思い入れがあるものかも知れんよね」
 
とか何とかこの日は喋りましたが、およそ一年後に来てみたら、何ということでしょう、井戸はこんな風にリフォームされておりました(!)
 
うひゃあどうしてこんなハイカラな感じに!?と思ったら、実はこの井戸はかつての愛加那さんの家のすぐ近くにあったらしく、実際に使っていたものだったようです。で、リフォームだけでなく立派な看板も建ってまして、そこには『愛加那の井戸』とありました。
 
はい、唐突なタイムスリップ失礼しました。
 
 
 
井戸を通り過ぎてちょいと行くとある仏像墓は、奄美の名家”由緒人(ユカリッチュ)”の代表格として、北大島一帯に大きな勢力を築いた龍家の、江戸中期享保十年(1725年)に亡くなった当主、道覚と、その家族と思われる人達の墓です。
 
屋根付きで、真ん中に穴が空いているこの形式は祠堂型(案内板では破風型)といって、九州南部でよく見られるもの。
 
こういう豪勢な墓は、裕福だったから造ることが出来たというのでは当然なくて、その当時奄美を支配下に置いていた、鹿児島藩の「身分によって墓の大きさや装飾の種類まで細かく定められていた」という厳しい規定に則っておったようです。
 
龍家については資料を見ると、元は”笠利”という姓を持つ、いわば奄美の古い豪族で、薩摩統治以前から島の北部一帯を治めていたとあります。系図には琉球第二尚氏初代、尚円王の兄弟を祖とするいわれが書かれています。
 
それはさておき、つづいては集落の中にある龍家一族の墓所。
 
 
ここにも仏像がありますが、首から上が消失しており、近年になって作られたとおぼしきコンクリート製の頭部が代わりに乗っております。
 
明治初頭に行われた廃仏毀釈は、特に鹿児島ではそれは激しいものでもあり、その余波は奄美にまで及んできたのでしょう。それまであった観音寺などはほとんど明治2年に神社に生まれ変わり、こういった墓地にある仏像も打ち壊され、戒名の彫られた墓石は削られたりしております。
 
が、奄美での廃仏毀釈運動がどのようなものだったかを具体的に記す史料はなく、多くが謎に包まれております。
 
 
 
 
 
 
 
その龍家の墓所のすぐ近くにある弁財天さんにも挨拶してきました。
 
こちらも元々は”テラ”と呼ばれる現町役場前にある”とおしめ”の岩の上に祀られていたものをこちらに遷したとありますので、推察するに廃仏になりそうだったところを、有力者である龍家が自分達の土地にかくまったのではないかと思います。
 
地元の人に訊くと”ベンザイテン”と呼ばず”ブジテンサマ”と呼んでいるそう。
 
しかし個人的にひとつだけわからんことがある、今まで島内の弁財天像を見て来て、八本腕のタイプのやつは大体造りが共通してるんだけど、ここの像は、どうもそのどれとも似ていない。石の材質も違うし、造形もふくよかというか、全体的に丸みが強調された姿に彫られてる。ここのだけ時代が違うのか、むむ・・・。
 
と、一人で悶々としていたら「あぁ、何か本龍郷のブジテン様は一回盗難に遭って、今あるのは二代目だよ」と。地元の人からサラッと驚愕の事実。
 
う~ん・・・つづきます。
 
 

リー・コニッツ中毒(コニ中)

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アメブロの「公式カテゴリに合わない記事を書いたらなんとかかんとか・・・」というのはどうにかならんもんかと思うが、まぁこのブログは別にランキングで上位を目指そうとか、幅広い読者の皆様と多く交流を(略)とかそういうのは別にどーでもいいブログなので、好きなこと、思い付いたことを気ままに書くスタイルを今後も続けます。

 

で、それでもまぁたまには公式カテゴリに見合った音楽のことでも書いてやってもよかろうということで、本丸の『奄美のCD屋サウンズパル』からの、ちょっと出向という形で今日はハマッている音楽について。

 

えぇと、リー・コニッツという人を知ってるよ、という人はまぁちょくちょくいると思います。

 

詳しくはココらへんを読んで頂くとして、この人はいわば、ジャズの世界におけるベテランのミュージシャン。

 

で、ジャズという音楽に私が最初に惹かれた時、その頃は”パンク”を求めてジャズを聴いてました。

 

強烈にぶっ壊れてて、衝動バキバキの、いわゆるフリー・ジャズとかその辺のギリギリのやつが好きだったんですけど、そこへいくとこのリー・コニッツという人は、クールでスマートな、つまりは”ぶっこわれてない”オーソドックスなサックス吹き、という認識だったと思います。

 

パッと聴いた時は小粋で柔らかくて暖かい雰囲気の「ふんふん、ジャズってオシャレでかっこいいねぇ♪」と思わる、まぁ俺も普段は過激なもんばっかり聴いてるが、たまにはこういう人畜無害なジャズも悪くないわい。

 

ぐらいな気持ちで聴いていたんですが、この人の吹いているフレーズには、一見優しそうな表面の裏に何だか物凄い狂気があるような気がして、そして、実は後からそうなんだと気付いた高度な理論と実験精神に基づいた、独特の掴めそうで掴めないフレーズには、そのへんのヘタなフリージャズよりもヤバめの中毒性があるんじゃないか、いやある!てかある!ぜってぇヤベぇ・・・。

 

となって、かれこれ20年経ちます。

 

「ほんとかよ」と思う人向けに動画

 

↓若い頃のコニッツと

 

 

 

↓御年90を超えても未だ現役バリバリのコニッツ

 

 

サックスが隣のサックスにアドリブをうにょうにょ絡めていくのとか、ちょっとしたフレーズを「ふわぁ~ん」と吹いただけでも「あぁぁ、いい!何だこの遠くに持って行かれる感!」ってなるのとか、相当ヤバくないっすか?一見端正でマトモな演奏だから余計にヤバいんです。

 

 

 

あちこち(浦上~龍郷編8)

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さて、本龍郷でウロウロしていると、シトシト降っていた雨がやや本ぶりっぽくなってきました。

 

が、ここで探検を止める我々チームあちこちではありません。

 

「次は」

 

「久場。行ったことは?」

 

「ない」

 

「じゃあ行こう」

 

という訳で久場。

 

前に行った時はお地蔵さん以外の、特にこれといったものは見なかったのですが、色々と「ん?」と思うことはあって、常に心に引っかかる場所ではあるんです。

 

そう、前に行った時、奥へと続くこの道

 

 

 

 

ここを歩いていた時、おびただしい数の蝶々がずっとひらひらと舞っていたその景色がとても幻想的だったこと。

 

それから...。

 

あの~、まぁ集落の中には人の住んでいない空き家ってのがどこへ行っても大体あるんですが、その空き家っぽい朽ちかけた家と言っては失礼かもなんですが、白い着物を着た、ほえ~っとしたご老人が座ってたんですよ。

 

おっとぉ、人居たんだ。

 

とか、その時一緒に行った播磨殿と喋りながら、そういえば確かその日も雨が降ってて

 

「うひゃー、雨降ってきた。早く車に戻ろう」

 

何て言って車に乗って、さあ行こうとしたその時

 

...え?あれ?

 

集落とは反対側の坂道の方から降りてくるんですよ、人が。っていうより、ついさっき集落の中の家の縁側で見たあのほへ~っとしたご老人が。

 

「あのじーさん、どー見てもさっきのじーさんですよね...」

 

「うん、あの~...集落に入る道ってここ以外あったっけ?」

 

「反対側にひとつ...」

 

「だよね」

 

「さっきの場所からほんの2分ぐらいでこの場所に本人が来ることは...」

 

「不可能っすね...」

 

「瞬間移動の術が使えるスーパーじいさんでなければ、きっと瓜二つの兄弟だろうね。瓜二つの兄弟でなければ瞬間移動が使えるスーパーじいさんだということになる...」

 

「...」

 

 

ということがありました。

 

これだけだったらまぁそうかという話で、全然大したことではありません。

 

が、私の頭の中には、実は”もうひとつの似たような話”があって、集落の中で実はそのじっさまの顔と姿を見た瞬間に、その話を思い出して「あぁ、これ、何か似たようなオチが来るなぁ」と、何となく思ってたんです。

 

時を遡ること今から100年ぐらい前、当時瀬留に住んでいた私のひいじいちゃん、清四郎さんが子供の頃の話です。

 

歩いて山を越え、まだ幼い妹と本龍郷まで遊びに行った時のこと、久場の山道を歩いていたら、妹が

 

「もう疲れたよー、歩きたくないよぉ」

 

と、グズり出した。

 

そこで清四郎さんは

 

「よしよし、もうちょっと行くと水のおいしいコモリ(川の深みた滝壺など、清流が溜まっているところ)があるから、そこでゆっくり休憩するぞ。それまではもうちょっとだから頑張れ」

 

と励ました。

 

しばらく歩くと、前の方に白髪の禿げあがったじいさんが、ほへ~っとゆっくりゆっくり歩いてるのを見つけたので、ちょっと早足で軽々追い越したそうです。

 

「ほらみろ、あんなじいさんでも歩いてるんだから俺達が歩けない訳がない」

 

と、ちょっと得意気になりながら妹を励まして、そしたら妹も元気になって、そのまんま順調にコモリの近くまで来ました。

 

「もうちょっとだぞー、ほら見えた!」

 

と、清四郎さんが指さした先には、コモリの脇の岩に腰かけている先客がおります。

 

で、その先客をよく見たら、何と先程追い越した、あの”ほへ~”っとしたじいさんだった。

 

と。

 

当然清四郎さんと妹は、休憩どころじゃなく、泣きながら一目散に走って瀬留に帰ったそうです。

 

まぁきっとアレです、いたずら好きの双子のご老人でも居て、子供をびっくりさせてやれと仕込んだのやつに、ウチのひいじいちゃんはまんまと一杯食わされたんでしょう。

 

で、今回はその曾孫が食わされたと。

 

やれやれまったく困ったじいさん達だぜ、と思いながら、若干バクバクする胸を落ち着かせるために煙草に火を点けました。

 

 

「と、まぁそんなことがあったんだよ」

 

とか何とか言ってるうちに集落の最深部に到着。

 

ま、まぁ不思議なことなんてそうそう同じ場所で何回もあるもんじゃないよ。

 

 

 
 
えっと、ここまで車は軽自動車でギリギリ通れるか通れないか...っていうかほぼ通れない道です。
 
4t車はまず無理です。
 
それ以前にこの先には道路も何もありません。
 
不思議なものには出会いませんでしたが、色々と不思議な気分になった久場編終了。
 
で、ちょっと時間があったので、せっかくだからもうちょっと先行こうよという訳でぐるっとUターンして秋名へ。
 
 
 
 
秋名での目的はコチラ、石造りの素朴な方がいて、見てくださいこの表情、いいですよね~。初めて会った時から私はこの方のファンになってしまって、以来ちょこちょこ来ております。
 
背後に座っているのは観音菩薩です。
 
こっちの方は交通安全祈願と書いてありまして、でもよくよく見たら地元の人達が何かの記念に建てたっぽい、ここ何十年かぐらいのものっぽいです。
 
一方のこの神様だか仏様だか判らないこの方。。。
 
 
 
像の背中に何か書いてないかなぁと思ってよく見たら、△の中に「大」と見えます。
 
う~ん、石工さんのマークか何かでしょうかねぇ。
 
※帰宅して調べたら、この石像は”ビンツルカミサマ”とか”ビンツル様”とか言われている、地元の守り神だそうです。
 
ビン=ビンタ=頭、ツルは文字通り”ツル禿”でしょうなぁ。
 
戦前はこの広場で行われた出征兵士の壮行で武運長久を祈ったと、資料にはありましたが、それ以前の詳しい由来については不明。とにかく仏教由来でも神道由来でもなさそうな、もっともっと土着の信仰の名残りを思いっきり感じさせますね。てか単純にかわいい。
 
 
 
 
はい、今回の探検(つっても1年以上前ですが)はこれにて無事終了です。
 
 
あ、そうそう、この”ビンツルさん”の近くでウロウロしてたら、ポケットの中のスマホが”パシャッ”と言ったような気がしたので、ちょいと取り出して確認したら画面いっぱいにこの写真が
 
 
 
今ドキのスマホ、すごいっすねー。ポケットに入れてても何かを認識して布地越しに写真撮れちゃうんですねぇ♪

(書きかけ)第1回末広町パフェ会

短歌人会員秀歌2016年8月号

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わたくしにシド・ヴィシャス風はいたんだろうか破滅的にと愛せし人は (竹花サラ)

 

シド・ヴィシャスはロクにベースも弾けないチンピラで暴れん坊でヤク中。主に”パンク”を音楽とファッションを巻き込んだムーヴメントにしたい側の思惑によってセックス・ピストルズのメンバーに抜擢され、結局やぶれかぶれの果てに19歳で死んでしまいました。音楽家としてはほとんど何も残していないシドでしたが、あの時代の”無軌道な若者”のひとつの典型として存在を世に残しています。破滅的、そう破滅的ですよね。でも、そんな危険に焦がれる気持ちを若い頃の特権として詠んだ歌。疑問形が読む側に色々なものを投げかけてきます。

 

父の略 憲兵時代、経理事務、尺八演奏、卓球好む (藤田くみこ)

 

憲兵といえば平時は軍の中の警察として軍人を取り締まりましたが、戦時中は特高警察と共に国民に恐れられておりました。若い頃は”鬼”であった父の戦後は、真面目でややピリピリした所もあったであろう経理のサラリーマン、定年してからは趣味に生き、尺八と卓球で活き活きと過ごしていた。”職”から離れ、ようやく自分自身になれたのか、徐々に人として優しく柔らかくなった様子が伝わって暖かな気持ちにさせてくれます。

 

木の陰に葉は落つるとも木の陰に限界はなく叙情するのみ (辻和之)

 

「叙情するのみ」はぁあ・・・、もう一回「叙情するのみ」うぅぅ・・・。何て素敵な言葉、短歌をやっている、いや、表現と何らかの形で関わっている人には、とにかく内に入れて反芻して欲しい言葉です。表現は孤独、とかそういう陳腐じゃない。詩歌に生きる者は皆”陰”を持っている。何か外的な影響によってそこに一瞬の変化はゆらぎはあれど、個の中に深く色濃く存在する陰は不変であり無限である。この意味がわかりますか?表現に悩んだらこの歌を思い出そうと思います。

 

春の日に善人ばかりが集まつて年次総会が開催される (桑原憂太郎)

 

「善人ばかりが集まる総会」って何かいいなと最初思いましたが、さにあらず。人って不思議なもので、多く集まれば何かを提案することよりも、如何にその場で面倒な事に巻き込まれずに波風を立てず立たせず、多数に迎合して事なきを終えたい気持ちで集団を形成してしまう。そうして当たり障りのない事が決まり、誰もが緩い安堵と共にその場を後にする。「善」ってなんだろう、作者の疑問は深いけれども、その「善」の中で「善」の一部としてのっぺりと生きている私達。

 

やはらかき日差しを浴びて紅さうび抒情詩のごとき風が触れゆく (谷垣恵美子)

 

実は「紅さうび」が何か分かりませんでした。でも、何かこの歌の爽やかで、切ない余韻を残して流れゆく旋律に惹かれて調べてみたら「紅さうび」とは薔薇のこと。あぁとても良い。やわらかい日差しを浴びて赤をきらめかせる鮮烈なバラ、その強い花弁と棘のある枝に、風が絡みながら流れてゆく。作者はそこに音楽を聴いています。読者も詠んだ歌の言葉の流れから、美しく微かな儚さを孕んだ音楽を聴くことが出来ます。風が触れる、この一言が際立たせる優美と繊細。

 

すずかけの木にブランコは吊るされて母の子供のころ揺れてゐる (來宮有人)

 

「子供の頃の母」ではないんです「母の子供のころ」なんです。言葉を並び替えただけのように思えますが、この違いは大きい。目の前にあるブランコを通して作者は、そこに「母」という身近な人の思い出を見ています。楽しそうに、嬉しそうに、ではなくただ揺れている。そこにどのような想いが浮かぶでしょう。読む人の心に浮かぶのは憧憬か感傷か、イメージの輪郭が読者に委ねられる部分が大きいので、この歌はどのようにも読めます。想像が入り込む余地がたくさんある歌ならではの抒情が胸にきますね。

 

 

人は皆遊びせんとや生まれける男の子も女の子も手つなぎ唄う 

人は皆戦せんとや生まれける相手も見ずにボタン押すのみ   (藤倉和明)

 

有名な『梁塵秘抄』のフレーズを配した2首。「子供」と「大人」を対にした作品ですね。子供同士だと初対面の知らない子とでも普通におしゃべりして仲良しになれるのに、どうして大人は知らない相手に敵意を抱いてしまうのだろう。国対国もそうですが、今、私達の周囲にはこういった”争い”が身近にあふれかえっております。現実もそうですがネットは特に酷い、知らない人に対して攻撃的になる人の何と多いことか。誰もが”そうでない本質”を持っているはず、けれども憎しみは巨大になって拡散している。どこかでハッと気付くことが必要ですね。遊びをせんとや生まれける。。。

 

高きから花は見るべし空にある鳥や蝶へと花は咲きたる (野上卓)

 

花を見るとき、それが高い木の枝にあるとき、私達は決まって見上げます。そうしないと高いところにある花を愛でることはできないからです。しかし、想像を巡らせましょう。視点をぐぐぐーんと高い所に持って行けば、空が見える。空はただ青くあるだけだけれども、その中を風に乗って飛ぶ鳥や蝶の姿を浮かべましょう。花はそこにも咲いている。「鳥や蝶へと花は咲きたる」には、もっと色んな読み方がありそうで何だか楽しい。西行を思わせるスケールの大きな歌。

 

橋の上で今日も女が聖書売るそば通るとき息を止める (いなだ豆乃助)

 

どこか異世界に迷い込んだような日常の光景というのがあります。たとえばいつも通る道の上に、ちょっと異様な存在感を放つものが突如現れてそこに居座った時。昔むかしの昭和の時代には、そういった人がたくさん居たんですよ。その頃は怖かったけど、あの人達は今どこで何をやっているんだろうと、ふと懐かしく思うこともあります。いなだ豆乃助さんのこの歌、ちょっと不気味だけど、やっぱり懐かしい感じがしますね。息を止めて通り過ぎるとか、やっぱりやりましたよね・・・。

 

 

時間ごと消え失せたのか真つ白いはまなすの咲くバス停留所 (屋中京子)

 

5・7・5・7・7・という文字の配列を使って訴えられるべきことの最たるもののひとつに「幻想」というものがあると、私は常に思っております。短歌が幻想を伝えなくなったら、それはただの「上手い事言う定型」でしかない。歌の中にあるそれは、今の時代ちょいとばかり危機に晒されていると感じることもありますが、こういう歌をたくさんの中からふっと拾うと「あぁそんなことはない、ここに幻想があるじゃないか」とホッとするのです。そのままぜひ読んでください。「時間が止まったような」という表現から一歩踏み込んだ「消え失せたのか」から脳内にドバッと、しかし静かに拡がるこの”幻”に溺れましょう。

 

ブッカー・アーヴィンはカッコイイ!

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ジャズの世界で、みんなが知ってる有名どころといえば、マイルス・デイヴィスとかジョン・コルトレーンとか、ビル・エヴァンスとかルイ・アームストロングとか、デューク・エリントンとかでしょう。
 
この辺の人達はもう時代を作ってきたパイオニアで、しかも亡くなってからもずっと、数々の逸話と共に多くを語られる圧倒的なカリスマであります。しかも、パイオニアとかカリスマに相応しく、その音楽も刺激や衝撃に溢れてたり、また、他を凌駕する究極の美しさに溢れてたりする。つまりは聴いてもう一発で「凄い・・」とかたずを呑んでしまうようなものがあるんです。
 
でも、ジャズの楽しさや奥深さを教えてくれるのは「凄い」の人だけじゃない。
 
「超有名よりちょい無名」ぐらいのところに、実は素晴らしい実力派や、愛すべき個性派の人達がうようよいて、その中から”私のお気に入り”と出会うところが、ジャズの本当の醍醐味だったりします。
 
で、私にとっての”私のお気に入り”がブッカー・アーヴィン。
 
 
 

 
雑誌か何かで
 
「ツウはブッカー・アーヴィンを聴くんだぜ」
 
みたいなことが書いてあって、それで「よし、聴いて知ったかしよう」っていう、割とゲスな動機で聴いた人なんですけどね
 

 

初めて買ったアルバムに、この『ブッカーズ・ブルース』っていう曲が入ってて、これがもう「ブルースが好き!そんなジャズ聴きたい!」って思ってた自分の心にグググーっと響いて、以来もう大好きでアルバムも見たら買えぐらいの勢いで集めました。
 
結構アルバムによって雰囲気は違います。バックが正統派っぽいジャズだったり、もっと濃い感じのR&Bっぽい雰囲気だったり、はたまたちょいとばかり実験的な感じだったりして、アルバムの印象は全然違うんですが、この人自身がどんなバック来ようがぜんっぜんブレずに「オレにはブルースしかないんだぜぇ~」と吹いてるもんだから、もうその肝の太さがたまんないんですよね~。
 
役者さんでいえば、カッコ良くて完璧で、常に主役か準主役のスターではないけれど、コミカルもシリアスも持ち前のキャラクターで演じることが出来て、かつスターにはない味がある、つまりは川谷拓三みたいな人です。
 
 

 

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可視光(短歌人2016年9月号)

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夕顔が一枚闇をめくること ざらりざらりと病む日々のこと 

芥子粒を意識で追うて夏なれや人は視界の脇を過ぎ行く 

猫の寝る姿勢がゆわり宙に浮き目眩がわれの頭上を跨ぐ 

咲く勿れ現る勿れ族滅を物語りする血の色の百合 

ペンを持て抉ることではあるのだが七五定型空には散らず 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何かを砕いたような音が一瞬鳴り響いた後、かなしみが一斉に開き出す

 

踊るでも

 

歌うでもなくそれは


ブルースの本のことなど

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上京して2年目の春だか夏だったかなぁ

 

上福岡の駅前をボケーッとしながらウロウロしてて、フラッと本屋に入ったら見付けた。

 

丁度その頃、元々好きだった戦前ブルースに急激にのめり込んで、そうそう音だけ聴いててもしょうがない、そろそろ何か分かりやすいブルースの本でも買わなきゃと思ってた丁度その時だ。

 

何で戦前ブルースに急激にのめり込んだのかといえば、その頃はもう笑っちゃうぐらいに精神的に不安定で、アホみたいな精神状態で耳に入れたブラインド・レモン・ジェファソンとかロバート・ジョンソンとかレッドベリーとかブラインド・ウィリー・マクテルとかが、もうそれまで聴いてきた音楽の「カッコイイ!」とは別次元の、もっと心の奥底にグサッとくるようなやつに思えて、それで「あぁ、この音楽こそが俺の救いだ」と思ったから。

 

だったような気がする。

 

パラパラっとページをめくると、今現在(1995年時点)のアメリカ南部の風景と、現地で活躍する名も知らぬブルースマン達の写真が、重たいモノクロームでデカデカと載ってるページがあった。

 

こりゃいいやと更にめくると、短くもしっかりまとめられたブルースの歴史(本での表記は”ブルーズ”)と音楽的な特徴がしっかりと書かれ、その後のページには「聴くべきブルースのCD」の丁寧な解説が、細かくスタイル別に記されていた。

 

カントリー・ブルースにシティ・ブルース、モダン・ブルース、シカゴ・ブルース、そしてブルースの隣接ジャンルまで。

 

それからはひたすらこの本に載っているブルースのCDを買い集め、聴きまくり、本と解説を読みまくる日々だった

 

そしてその日々は、あれから20年以上経った今でも継続中だ

 

結局ブルースに救われたのかなぁ、多分そうなんだろうなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

短歌人会員秀歌2016年9月号

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海風の昼を海鳥とんでいて耳は遠くをみている景色 (古賀大介)

 

静寂の中で、視覚と聴覚が冴え渡ります。作者の感性は極限まで研ぎ澄まされ、そして詩情が風景をそこに生み出します。目の前の海、その上を直射日光を浴びながらまぶしく滑空する海鳥、映像は鮮烈です。チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』です。耳は遠く...、そう、耳は風景の遥か彼方、そこはもう距離では測れないぐらいの、遠くにある想像の世界の音(という景色)を追っています。何という詩情でしょう。

 

六月の光も雨も呑みつくす四メートル越えの隣の向日葵 (伊藤壽子)

 

4メートルを越す向日葵、ちょっと想像が出来ませんが、とにかく見事に伸びて大輪の花を咲かせているのでしょう。恐らくこれは想像ではなく、実際に咲いた向日葵でしょう。6月になってくると梅雨の雨が訪れます。そして、それが終わるともう一気に夏の日差し。春に彩られた季節が、6月という境界を越え夏になると、一気に色を濃くする、激しく躍動する。季節の変わり目を詠んだ、目の覚めるような鮮烈な歌。

 

六十五歳になればいくつか通知くるまずは肺炎予防接種と (野上 卓)

 

65といえば、仕事も定年退職して、さぁのんびりと余生を過ごすかという歳です。が、昨今はそうもいきません。なけなしの年金は徐々に支給額が少なくなって、医療費の負担は増して税金は増えるばかり。そういう事情を知ってか知らずか、待ち構えていたかのように届く健康診断、予防接種などのお知らせの数々。「ほっといてくれ、薬ばかり買わされてベッドに繋がれて長生きなんてしたくねぇ」といった類の言葉は、最近お年寄りからよく聞きます。豊かさ、とは。

 

がんめんのひふにほどこす厚化粧 ゲイシーぴえろになりゆく過程 (鈴木杏龍)

 

「人は仮面の下に本性を秘めている」とはよく言われますが、いやむしろ厚化粧を施して、職場や友人達との集いに出かける時の人間は残酷な道化。それにならないと、集団の中で人間らしさを見失わないと存在出来ない。もう世の中はそういうものになってしまったのかも知れません。残酷なことです、でもSNSなどを見ているとあぁそうかも知れないと思います。キラキラした虚の日常の奥底に、ある種の恐ろしさを見ることは稀ではありません。”ゲイシー”とはピエロに扮装することが生き甲斐だったアメリカの連続猟奇殺人鬼の名前。

 

それはもう若葉だろうかそれはまだわたしだろうかもの言わぬそれ (辻 和之)

 

”それ”とは何でしょう。”若葉”のようであり”私”のようでもある”それ”は、恐らくは具体的な物質ではない。考えてもきっと正体の分からない、イメージの中のぼんやりとしたもの、というより、もう「心の中の一部分の状態」という、とても抽象的なものを言ってるのかも知れません。これが詩です。辻和之さんの歌はいつも、具体的な行動や描写よりももっと本質的で、無駄のない詩が、言葉としてしっかりと存在している。「わかる/わからない」よりも、言葉そのものにヒリヒリしたり、ギューっとなったりする短歌というものは確実にあって、そういう歌がないとやはりいけません。歌を読む時は、57577の旋律の周囲や奥底にある詩を読みましょう。

 

わかき日のゆめ老いしかばゆらゆらと風の村にバスは曲がりぬ (松岡修二)

 

そういう意味ではこの松岡修二さんも毎回の作品から強烈に”詩”を飛ばしてくる人です。じゃあ短歌における”詩”って何なの?と、私もいつも考えては苦悩しますが、現時点でそれは「現実を飛び越えてリアリティを浮き彫りにすること」なのじゃないかなぁと思うことにしています。この歌は風景が浮かんできます。回想の余韻を巻き込みながら、夢想とも幻想ともつかない「風の村」「バス」「曲がりゆく先」が、暗闇の中からゆらゆらと、しかしくっきりと浮かんでくるでしょう。

 

合歓の葉の揺るる暗がりほの白き素足が落ちた花踏んでゆく (桃生苑子)

 

桃生苑子さんのこの一首もまた、ヒリヒリと心地良い詩情に溢れております。ふわりと花開き、ほのかな香気を漂わせる合歓の花が、暗がりの中で揺れているだけでも存分に絵になりますね。その落ちた花びらを踏む白い素足。ここで読者がその”素足”の持ち主をどのように解釈するか、そういう余白があります。人間の少女なのか、それとも合歓の花の精なのか・・・考えるだけで”その周辺”に儚く美しい物語がふわりと花開き、ほのかな香気を漂わせます。

 

 

生まれてきたのがこのあいだのこと あともう少しでゴールだ (KENZO)

 

では逆に、平明な、つまり簡単な言葉でサラッと詠まれたものはどうなのか。今月の歌にはこういうのもあって、私は深い感銘を覚えました。

たとえば前半の「生まれてきたのがこのあいだのこと」は、誰もが一度は思うこと。15歳なら15歳の、27歳なら27歳の、36歳なら36歳の、42歳なら42歳の、はたまた80歳なら80歳の「ついこのあいだ生まれてきた」があり、多分誰もがそれぞれの「人生あっという間だな」があります。で、ふと思った時の「あと少しでゴールだ」感。諸行無常と一言で言うのは余りにも多くの万感が綺麗に流れている、そう思いまた感銘を覚えます。

 

このところ「予定調和」に飽き飽きす 電波時計よ偶には狂え (大鋸甚勇)

 

毎回『短歌人』会員欄から「これは好き、これは素敵」と思った歌を選んでおりますと、詩について考えたり言葉を探ったりしているうちに思考の袋小路に迷い込むことがありまして、そんな時にいつも「おうおうおう、おめぇは何をしゃらくせぇことばっか言ってやがるんでぇ、オレの話を聞いてくれよなぁ」と、アッパーカットと共に語り掛けてくるのがこの人の歌です。いやもう理屈抜きに好きなんです。電波時計って絶対狂わないんですが、世間の予定調和ごと狂ってしまえと。これはもうパンクでありブルース。

 

 

優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊 (笹川 諒)

 

そして再び”詩”の世界へ。会員欄でとりわけ優しくて爽やかな余韻の使い手といえば、笹川諒さんだと思います。毎回歌を読む度に、どういった背景からこんな繊細な言葉を紡ぎ出すんだろうと気になります。気になってしょうがありません。水の聖歌隊、この美しい言葉に出会う前に、この人の内なる言葉はどんな場面を泳いできたのか、そしてどれだけ傷付いてきたのだろうかと思わせるし、そう思ったら何だか胸が切なく締め付けられます。

 

 

 

 

薄明の空(短歌人2016年10月号より)

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港から高架にかかるさびしさの虹もほどけて薄明の空


虚と実のわけがわからぬ人生を転がって居り異音とともに
 

花火の夜、出るに出られぬ街を出てふと思いたり蝉の一生


悲しくて吐き出してから比喩となすDの音階または紫陽花


あくせくと働くためのバンの上 猫は寝息を立てて候

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

静かに

 

静かに

 

破れた心の内を壊さないように

ピアソラしか聴けない期間

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季節が秋から冬へと変わろうとしているこんな時、毎年発作的に湧き起こるのが「アストラ・ピアソラしか聴けない病」の発作だ。

 

奄美は冬になると、空の色が重たくなり、強い北風が吹き出す。

 

その空の圧、風の音と「激情の芸術」と呼ばれているアルゼンチン・タンゴはよく合う。

 

なかんづくピアソラ。

 

アルゼンチン・タンゴは、港町ブエノスアイレスのカフェや酒場で生まれた娯楽のためのダンス音楽だった。

 

そこにクラシックやジャズの手法を大胆に取り入れて、コンサートホールでの鑑賞に耐え得る音楽へと昇華させたのがピアソラのタンゴだ。

 

「踊れない」

 

「つまらない」

 

という一部の古くからのファンの声には一切耳を貸さず、黙々と「胸が破れんほどの切ない衝動を音楽にする」という事に勤しんだピアソラのタンゴは、今や世界中でジャンルを超えたファンやプレイヤー達に愛される、新たなスタンダードとなっている。

 

それはそうと、ピアソラの音楽は「ハイパー哀愁」(昔、一緒にピアソラ動画を観ていた先輩が思わず漏らした言葉)なのだ。

 

 
詩作における衝動が行き場を失いかけた時、或いは日常生活の中で胸の奥底にある、言葉にならないどうしようもない切ない感情が、思わず体を破ってしまいそうになった時(そう、決まってこんな空が目の上に拡がって、こんな風が自分という存在そのものを掻き消してしまいそうなほど激しく吹き荒れている時だ)、ピアソラの”ハイパー哀愁”は、衝動や感情や感傷に激しく寄り添ってくれる。
 
さて「ピアソラしか聴けない病」の発作は、あと何日続くだろうか。まぁ、何日続いても構わないしむしろ歓迎だが。
 
 

http://soundspal.seesaa.net/article/436868839.html

(音楽の方のブログにもピアソラのこと書いてますんで読んでね)

短歌人会員秀歌2016年10月号

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いま確かに「風」といはるるもの過ぎつつ甕の水面にさざなみ立てば (岩崎堯子)

 

短歌に限らず、詩や音楽といった表現は「見えないものを掴むために存在するもの」という気持ちを強く持っております。和歌の昔から歌詠みは、大自然の中に確かに存在するけれど、肉眼で捉えられないほど精妙なものを、感情と合わせて詠むことで、その姿を描き出してきました。そんな事を噛み締めながらこの歌をじっくりと読んでみてください。甕(かめ)に湛えられた水が微かに揺れてさざ波が立つ、そのほんの微かな動きから現れる「風」。敢えて”風といはるるもの”としたところにもまた精妙の妙があります。

 

 

よかったかよくなかったか日の暮れてざらつく街を左へ曲がる (古賀大介)

 

仕事や学校、或いは個人的な用事で外に出た帰りかも知れません。夕暮れの中を歩きながら一日を振り返る、きっと、この一日の中に、誰か他の人との”かかわり”があって、その事で思い悩む。ありますね。あの時自分がしたことや言ったことは、あれでよかったんだろうか、それとも悪かったんだろうか、思い悩むのは優しさ故にでありましょう。心にどこかざらっと残る後味の悪さ、それが日暮れの風景と同化して、淋しい心の世界として現れる。思い悩んでいるのは自分でしょう、けれどもその姿は左を曲がって見えなくなってしまう。何てギリギリの風景でしょう。

 

 

新聞の記事をまじめに読んでたら広告臭い、広告だった (野上 卓)

 

新聞というのは不思議なもので、真面目なことばかり書いてあるのですが真面目に読む記事というのは限られていて、その他の記事はテキトーにダラダラ読んでしまいます。あ、私が不真面目なだけですね。でも、私はこの歌の作者野上さんに、同類としてのシンパシーを感じてしまうのです(えぇ、大変に失礼です)。「ほうほう」と真面目に読んでいたら、実に広告臭い、俗の塊みたいな広告だった。ちくしょう、真面目に読んで損した、時間を返しやがれぃ、べらぼうめ。と思ったのか、それとも「そんな広告臭い広告だからあえて真面目に読んでみた」のか。

 

 

 

心がけのすずしい日もある海凪いでむらさき色の空映しおり (織田れだ)

 

そんな歌にニヒヒとなった直後に心洗われたのがこの歌です。「心がけのすずしい日」とは、具体的にどういう日なのでしょうか、正直ストンと理解出来ない心がけのよろしくない私のような人間が読んでも何か心の中に爽やかな風がするりと抜けるような美しい詠み。明るく柔らかな日差しの中にキラキラと、優しく映える海。カラッと抜けるような青空ではなくて、海の濃いブルーと重なって紫に輝いている空。読むだけで読む方が清らかな人間になったような、そんな心の美しい歌ですね。

 

 

花火よりもっとさびしいみずからの頭骨ひびかせかじるせんべい (鈴木杏龍)

 

外で鳴り響くどんな音よりも、実は自分が口の中で出す音が大きいって知ってました?それは頭蓋を直接伝わって、実は聴覚じゅうに響いている音。不思議な事に私達は意識しないとこの音が聞こえません。きっと脳が自動的にノイズとして処理しているんだと思います。でも、ふとした時にこの音が聞こえる時がある。一人で静かに物思いにふけっている時。特に固いものを噛み砕く音は寂しい時悲しい時、何であんなに響くんでしょう。あぁ、そういえば花火って寂しい音がしますよね。意識と感覚を研ぎ澄ませ、内へ内へと突き進んでゆく作者の壮絶な覚悟も感じます。せんべいの音って骨を伝って響くんです。

 

 

眼には海、あなたの眼には、すでに海、なにかを赦しあえた気がして (辻 和之)

 

こういう「文字と文字の隙間に凄まじい質量の詩が込められている歌」を目にした時、これを評する他者という存在である自分自身に非常に苛立ちを覚えます。どんな美辞麗句も、この歌の美しさには勝てない。そりゃそうで、きっと詩そのものを露わにする評なんてあるべきではない、いや、あるはずがない。思考はそこまで言ってしまいます。眼の中に実際の海がある訳でも、そこにある海が映っている訳でもないのです。でも、それほどに深いものを宿す瞳がそこにある。何もかも吸い込んで淡くして、そして赦しまでも与えるような深い何かが・・・。

 

 

街路樹の影は歩道に滲み出づヘッドライトに照らさるるたび (鈴木秋馬)

 

「陰影の人」鈴木秋馬さんです。短歌人誌面をめくって鈴木さんの歌を見付けることは陰影を見付ける事に等しいと、私は常日頃思っていて、それを口に出して言うと、それはフッと闇の彼方に消えてしまいそうな儚い陰影だから、口に出すことはしませんがここに記します。無言で立っている街路樹の存在感は、夜の闇にその影を浮かべた時にこそ、闇の向こうへと伸びて行く道と共に異様な際立ちを見せます。ヘッドライトに照らされる度にジワッ、ジワッと流れてくるその影はまるで意志を持つ液体。もちろん描写を極めた歌なんですが、その奥底に形を成さずに蠢く物語こそ余韻に読むべしです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジョニー・ギター・ワトソンというか奄美の夏

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さて、12月。
 
去年は確か11月まで暑かったから、何というか暑さの苦手な自分は何かする毎にヒーヒー言ってバテてたが、流石に今年はそんなことないでしょう。涼しくなったらちょいと感傷的な気分に浸って、しんみりとしたピアノもののCDなんか聴きながらセンチに生きようとか思っていたが、え?12月?何か暑いよね?嘘でしょ?あの~、ボクは「気温25℃以上は人間が快適に暮らせる温度じゃないから警察とか憲兵とかそういうの使ってガンガン取り締まれ」ってことを日頃から声を大にして言ってる訳なんだが、今日の奄美の気温、26℃だった・・・。
 
警察・・・取り締まれ・・・。
 
なんだもー、こんなジトッとかギラッとかいう効果音が似合いすぎる気候だったら、車の中で感傷に浸る音楽なんて聴いてるうちに絶望に浸り込んでしまうじゃないの。
 
じゃあはい!気分変えぇ!!
 
で、自分の持っているCDの中では極力チンピラ臭いのを聴いていた。
 

 
いぇ~い、ジョニー・ギター・ワトソン!
 
 
詳しくはココにレビュー書いたし、まぁ真面目なことはあんま書かんどく。
 
「ブルース」の文脈で語られる事が多いし、確かに戦後すぐぐらいのテキサス~ウエストコースト・ブルースのかなり中心付近から出て来た人ではあるのだが、70年代以降は完全にファンクの人になったし、何しろこの初期の時代から、ブルースといえばの気張った顔してギターを泣かしたりとか、人生のホロ苦さを噛み締めるようにしみじみ歌うなんてことはこの人にはあり得ない。
 
最初っから曲調とかアレンジにはデーハーでトッポくて、いい感じの軽薄さがあって、しかも独特のケラッと笑いながら撃ったり刺したりしてきそうなノーテキンキな声とか、いや、実はギターもめちゃくちゃ上手いし、一瞬”本気”に入った時の声の情念とかめちゃくちゃシビレるんだが、基本は”チンピラ”の感じを絶対に殺さない。殺さないから50年代とか60年代アメリカの「オープンカーのキャデラックでイェ~イ」な感じがめちゃくちゃする。
 
あぁこういうのカーステでずーっと聴いてたらどこまでもイイんだよな~って思ったから、今日はどこまでも聴いてた。暑い、不愉快である、でもしょうがねぇ、全部しょうがねぇって時にいいんスよ。誰だ俺は。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

囁き(短歌人2016年11月号より)

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ねこじゃらしまばらに生える校庭をミラーに収め仕事の終わり
 
化粧した稚児の姿で目に入るは人にはあらずのうぜんかずら
 
約束の束はほどけるゆうつかた低空飛行で飛ぶ影法師
 
案外と広い空虚もあったもの白い花瓶を盛るだけの水
 
乖離して風に転がる濁音符辛い訳ではないが苦しい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
歌というものの中には
 
日常と非日常のあやうい境界しかなくて
 
そこでは虚構もリアルも
 
ただあるがまま優しく崩壊する
 
これを忘れないこと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

エリック・ドルフィー 未発表音源集ようやく購入

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ジャズという音楽には、実は小さい頃から馴染みがあった。
 
両親がジャズ好きで、家にはそれこそレコードや関連の書籍がいっぱいあったし、親が(特に親父が)街に連れて行くとなれば、大体決まって友達がやっている飲食店で、そこでは決まってジャズが流れていた。
 
ほんで、私が小さい頃からジャズに囲まれてすんなりジャズが好きになったかといえばそうではない。
 
音楽を個人的に「いいなぁ~」と感じ始めるようになったのが小学校6年生の時、その時からブルーハーツとか米米クラブとか徳永英明とか渡辺美里とか、とにかく流行の中から自分に合ったものを自分で聴くようになった。
 
思春期になってブルーハーツ経由でパンクロックという音楽に目覚めて、そこから十代はまっしぐら。
 
その途中でカントリーとか戦前のブルースとか入ってくるから話はちょっとややこしくなるが、とにかく音楽のほとんどに求めていたのは刺激だった。
 
で、ジャズはどうだったか。
 
正直これが「何かおっさん達が聴くかったりー音楽」だと思っていた。まぁそりゃそうだ、大体インストだしパンクロックみたいにわかりやすいメッセージがわかりやすく表に出ている訳ではないし、特に親父が好んでいたモダン・ジャズというのかハードバップというのは、何だか「イェ~イ」って感じのノリで「あぁ平和だなぁ」ぐらいにしか思ってなかった。それがジャズって音楽だ、と。
 
そんな感じで十代を過ごし、上京してハタチを過ぎた頃、ある日突然「ジャズ」に不意打ちを食らった。
 
詳しい経緯は以前エッセイに書いたが、とにかく”名前ぐらいは知っている”程度だったジョン・コルトレーンの壮絶な晩年のライヴを聴いて、そのハードにぶっ飛びながらグイグイと聴く方の意識を精神の底なし沼に沈めるような音楽を聴いて「こ、これはパンクだ!!」と衝撃を受けたのが、そもそもの始まりだった。
 
 
ジャズという音楽は、決まり事や約束事に果敢に挑戦し、それをぶっ壊して再び作り上げてゆく、何てパンクな音楽なんだろう。そう”正しく”認識してからは、ジャズに対する見方が変わった。
 
そして究極的に私を”ジャズ好き”にしたのがエリック・ドルフィーだ。
 
物凄いスピードでリズムを蹴散らしながら、ぶっ壊れるギリギリのテンションで激しく最低音から最高音まで一気に駆けてゆくアルト・サックス、バス・クラリネット、フルートのアドリブ。メジャーともマイナーとも言えない、奇妙にねじ曲がった独特の音階。
 
音がひとつ彼方に飛び去ってゆく毎に降ってくる「カッコイイ!」という感動と「何だこれ!訳がわかんねー!!」という新鮮な驚き。
 
そっから好きなジャズ・ミュージシャンは芋づる式に増えて行ったし、特別なアーティストとも沢山出会った。コルトレーンとサン・ラーはもう私にとって信仰のようなものになっているし、退屈だと思っていたモダン・ジャズやビッグバンドの味わいや奥底にある反骨のスピリッツみたいなのにも何となく気付き、今に至っているが、やっぱりエリック・ドルフィーは特別の中の特別だ。
 
で、エリック・ドルフィーのファン歴23年ぐらいになるんだが、今年そのドルフィーの未発表音源がリリースされるという情報がネットを飛び交った。
 
ワクワクしたが値段を見ると¥5000近い。
 
うむ・・・貧乏だし諦めようと思ったら、サンタクロースが届けてくれた。
 
あのねぇ、サンタさんはいるしツチノコもいるし雪男もネッシーも天狗も河童もい・る・の!と声を大にして言いたいが、ここで大声を挙げたら別の話になったのでこの件は改める。
 

 
『ミュージカル・プロフェット ジ・エクスパンデッド1963ニューヨーク。スタジオ・セッションズ』という、やたら長いタイトルの3枚組CD。
 
内容はドルフィーが亡くなる前の年にスタジオでセッションした音源の全てで、実はこの中から『Convasations(メモリアル・アルバム)』『Iron Man』『Other Aspests』として、いずれも彼の死後アルバム化されていて、本当の”未発表”の部分は1枚目、2枚目の後半と3枚目に入ってる。
 
それでも作品としての圧みは期待以上だったし、既発売の部分と未発表の部分を丁寧に作品として編集してある作りは素晴らしい。何よりも音質がこれまでより全然向上していて、まるで目の前で吹いているかのようなドルフィーのアルト、バスクラ、フルートの生々しい音にはかなり興奮している。
 
あと、完全未発表の部分では、ドルフィーとベースのリチャード・デイヴィスがデュオでやっている曲があって、これが静謐と炸裂の・・・あぁもう何と言っていいか、それまで準備していた語彙が全部ぶっ飛ぶぐらいに凄まじい。ベースのアルコ(弓弾き)の音でこんなにまで隅々に不穏な”気”が満ちている演奏って、もしかして初めて聴いたかも知れない。うん、このトラックのためだけに買ってもいいぐらいに素晴らしく濃密な音楽が、ここで奏でられている。
 
3枚組なので年末年始はドップリと浸ろう。
 
 
※今回のアルバムと、コレで聴ける既発のアルバムを並べてみた。まぁミーハーということで(えへ)。
 
 
 

 


エリック・ドルフィーと私との出会い『Eric Dolphy/Out There』

 

 
 
 

12月 ~やまとうた歌会3首~

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【楽】

12月、人々は足早になりて苦楽まみれの雪舞って居り

【天or地】

永遠であるかのように皆笑うインスタグラムは天国なのか

【数字を入れた歌】

悠久の虚ろの中で光りたる望月のちの千年の夢 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年最後のやまとうた歌会!

 

丁度歌会が発表になった時、私は柄にもなく風邪で熱を出しておりまして、それだけならまだいいのですが、またぞろ大きくなってきた左腕の吹き出物(以前チラッとブログに書いたかな?3年前に自分で切って中身を出したアレです)が、発熱に触発されて化膿。その痛みにのたうち回っていたところでした。

 

幸いにして歌会終わった直後の火曜日には病院へ行くことが出来、そこで今回はちゃんとした処置をすることができましたので、腫物は多分しばらくは大丈夫。「2,3日で治まると思うよ」と言われた痛みも、翌日にはほとんど無くなって、今は元気です。

 

今年最後の歌会は、そんなこんなで大シャバダバだった訳ですが、これもまぁ厄年最後の厄払いを盛大にやったんだと思えばスカッとするってもんです。ブログをご覧の皆様、こんな私ではありますが、来年もどうかよろしくお願いします。

 

皆様に良い年が訪れますように。

 

 

 

 

 

 

2019年元旦

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年越しの水は冷たし身を締めて幸せの実を射らんと欲す
 
 
 
 
 
皆様新年あけましておめでとうございます。
 
まずは皆様にとって2019年が素晴らしい、充実した年になりますよう心から祈念致します。
 
さてさて、私の(今回も)シャバダバな年末年始ですが、まずは新年を迎える前に掃除です。
 
我が家で最も大事な場所といえば、ベランダにあるマイケル(亀)の家。
 
大体11月ぐらいから、マイケルは冬眠に入りますが、その間ここをほったらかしにしておくと、あっという間にコケが生えてしまいますので「はいちょっとごめんなさいよ~」と、熟睡しているマイケルを起こして水槽から敷石から亀本体から、時間をじっくりかけてブラシでゴシゴシゴシゴシ・・・。
 
はい、すっかり綺麗になりました。
 
寝てるところを起こされて機嫌が悪くなってるかと思いきや、首をグイーンと伸ばしてゴキゲンのポーズ。
 
そう、亀って冬眠中もちょこちょこ起きて、こうやって首を伸ばして息をしたり日光浴したりするんです。でもご飯は一切食べないので、あぁやっぱりこれは冬眠なんだねといつも思っております。
 
 
さて、明けて新年。亀の家も掃除して、今度は人間も綺麗に掃除しましょうね。
 
 
この時期のキンキンに冷えた水(温度は14℃)を朝からガッツリかぶって、そしてしっかり浸かります。
 
水風呂が趣味なので、春夏秋冬それぞれの水に浸かって温度は大体肌で分かるんですが、15度を下回ると「冷たい」というより「痛い水」にだんだんなってきます。でもこれがあら不思議、使っているうちに体の温度を感じて内側からポカポカあったかくなってくるんですよね~(オススメはしません)。
 
そして実家へ。
 
正月早々こんな感じで兄貴(実家猫)はベタ甘え。
 
 
 
 
でも、一通り撫でられてゴロゴロ言ったら「お前なんか知らん」とばかりに急にプイッとどこかへいなくなります。まぁ猫です、実に猫らしいクソ可愛くないところが可愛いやつです。
 
そして今年もこれが我が家の正月料理です。
 
 
三献の刺身とお吸い物と、数の子と白豆の甘煮。写真には写っていませんがこれにサラダと生ハムとチャーシューをたらふく食べました。
 
 
 
その後は安定のドッサリお菓子。。。
 
で、車で親戚の家へ行きました後、何故か街の真ん中に出てきて掃除して
 
 
 
再び実家でお菓子を食べて、帰省してくるイトコを迎えに空港へ
 
 
そのまま叔母宅でまたしても三献の吸い物と正月料理を少々とお菓子。。。
 
で、歩いて数秒の実家で夕飯は物凄い量のぶたしゃぶと正月料理『豚骨(ぶたんほね)』とお菓子。。。
 
今日何食したかとか、今日1日で何キロ太ったんだろうかとか考えながら帰宅したんですが、冷蔵庫の中には今日もらったお菓子がたくさん入ってましてですね、えぇ、今月は例年の如くスクスクと大きくなるつもりでおります。
 
 
忙しいあれこれが終わって家でまったり聴いたのは、全テナーサックス吹きが「親父」と呼んでリスペクトせねばならないジャズ・テナーの父、コールマン・ホーキンスのレコードです。
 
『Good Old Broadway』思えば20ン年前にジャケットがカッコいいなと思った、それだけの理由で買ったレコードなんですが、これが大当たりでした。古い時代のミュージカル・ナンバーを、小粋に吹いているだけの、極めてリラックスしたストレートな演奏。ところが親父(コールマン・ホーキンス)が独特のズ太い音を震わせながら吹けば、どの曲のどんなちょっとしたフレーズでも見事なジャズになる。
 
ジャズっていえば何か凄い事を派手にやってる名盤というのがいっぱいあります。このアルバムはそういった類の作品ではないんですが、この「良い曲を良い演奏で奇をてらわずにじっくり聴かせること」の無限の凄さはどうでしょうと言いたくなってきます。
 
さて、そんな感じで今年も始まりからドタバタでしたが、何とか日付が変わる前にホッと一息つくことができました。
 
まぁ皆さん、そんな訳で今年もどうぞよろしくお願いします。
 
私は明後日までゆっくりするぞー
 
と思ったんですけどね
 
明日と明後日は2日連続山登りの荒行が・・・

2018年1月の川散歩

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さて、何か色々と書こうと思っているうちに、書きたいことや書かねばならないことがどんどん溜まってアウトプットが追い付かない当ブログです。
 
という訳で今日は丁度去年の今頃行った「探検」の記事を書きますね。
 
名瀬の市街地の真ん中を流れる永田川という川がありまして、その源流に行きました。
 
どうやって行ったかと言うと、街からてくてく歩いてその突き当り付近にありますのが群島最大の霊園永田墓地。その墓地エリアの一番奥付近からえいやっ!
 
 

 
と、気合いを入れて川に下ります。
 
 
 
サクサク歩いて行きましょー。
 
5分ほど歩きますと、岸のところに少し平地が開いた所に出ます。その昔は墓地も今ほど広くなく、この辺りまで家がありました。
 
奄美は平地が少ないので、山に段々畑を作って、その麓の川とか山とかギリギリの所にも人が住んでたんですね。
 
 
朽ち果てた廃屋は、相当古いようにも見えますが、戦後に建てられた一般的な木造住宅です。中の様子から昭和の終わりか平成の最初頃までは普通に人が住んで生活していた感じです。
 
この家の”朽ちぶり”も味がありますが、護岸の石積みと絶妙なバランスで積まれている石垣がいいです。うん、この”石ぶり”実に良い。
 
さて、この廃屋のあるゾーンから進むと一気に道が険しくなってもう完全に大自然の世界へ入ります。
 
ゴツゴツした岩を飛び越えたり乗り越えたりしながらひたすら上流へ・・・。
 
 
川の本流とは別に、横から小さな水が流れてくるところもあります。ドーッと流れる水の音にチョロチョロという音が混ざって目にも耳にも心地良い。
 
 
 
水はとても澄んでいて、水道の倍ぐらい冷たい(!)この場所から市街地まで直線距離でほんの数百メートルぐらいですよ。
 
 
 
で、先程からチラッチラッと写っているのは、これは恐らく下にある墓地の水道用のパイプです。墓地の手前で一度タンクみたいなのに集められますが、雨不足や災害に備えて、かな~り上流の方から水を引いてるんですね。ところどころこんな風に噴き出してる所があって、天然のミストシャワーを浴びました(真冬です)。
 
結構ゴツゴツした道を1時間半程歩きましたので、見晴らしの良いコモリ(水が落ち込んで壺になってるところ)で休憩、途中山に向かって伸びている旧道の跡っぽい所など散策して今回の探検は正味3時間ちょっと。
 
 
そういえば私の「探検」は、名瀬の街のあちこちにある川や沢の上流を目指す”源流巡り”から始まりました。
 
何で源流なのか、今も実はよく分かっておりませんが、かれこれ15年以上悩まされている耳と神経の不調から来る眩暈や動悸が、自然の中の静かな所や綺麗な水のある所へ通うようになってから、いい感じに治まってきてはおります。奄美の良さとか、実はあんまりよく分かっていないけしからん島民ではありますが、そんな私でもこの島の水は本当に素晴らしい財産だなと分かります。絶対に大事にしたいし、大事にして欲しいです。
 
さて、短歌と稼業の地下CD屋のブログを今年も頑張ります!
 
 
 

短歌人会員秀歌2016年11月号

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てのひらうすく切れてそれでも滲まない血のいろの赤をわすれてしまふ (鈴木杏龍)

 

紙でよく切ります。指の関節辺りをスッと切ります。あんまり見事に切れるので、血も痛みもやや遅れてやってきます。とても不思議な感じがするんです。チクッとするその痛みは、もしかしたら切なさに一番近い感覚ではないのかと思います。個人の感想です。さて、その時の”滲まない一瞬”には空白があって、この歌は正にその空白の歌。鈴木杏龍さんが独特の詠みでいつも示すのはその空白。

 

 

昭和、緑、憲法、母と来て しばらくののちに父は帰りし (萩島 篤)

 

祝日や祭日には色々な名前が付いています。歌われているのは5月の連休。昭和の日、緑の日は天皇誕生日、そのすぐ後に母の日があり、これには実は昭和の初期に「皇后陛下の誕生日(3月6日)に定めようという動きがありましたが、それは結局定着せず、欧米に倣うことになりました。やや遅れて6月にやってくる父の日ですが、歌の中で父は”帰る”ということになり、ここで”父”は実存となってその姿を現します。このちょっとした動きで不思議に浮き上がるリアリティ。

 

 

街角に「レイニーブルー」が降りしきる電話ボックスどこにもなくて (伊庭日出樹)

 

徳永英明の名曲「レイニーブルー」はとても切ない曲です。歌詞の中にあってその雨を際立たせるのが車のヘッドライトと電話ボックスです。かつて、悲しい恋はこのように歌われました。電話ボックスはもう街の中から消えて、感傷は風景と共に流れて行く。「レイニーブルーが降りしきる」を、街で偶然流れていた同曲と読むか、それとも雨と読むかで印象はまた違ってきますが、両方の読みで浮きびあがる切なさの違いを味わいましょう。

 

 

花火果てなにかざわめき残る夜をわたりゆくなり上弦の月 (宮崎稔子)

 

そういえばいつからか、花火というものを「打ち上って炸裂した時の華やかさを楽しむもの」から、「それが消えた後の儚さを余韻として味わうもの」として感じるようになってきました。5年ぐらい前だったか、花火が上がる方向に輝く月をぼーっと眺めていいなぁと思っていたことも。こんな感覚は私だけかと思いましたが、こういう歌を見ると何故か安心します。月は美しい。

 

 

あさがおの軒までとどく花すだれ夜明けの月のかかりて涼し (高木律子)

 

蔓系の植物を窓辺やベランダに這わせると実際に涼しくなります。最近はグリーンカーテンなる言葉もあり、積極的に植える家庭も多いんだとか。でも、植物を生活の中に持ち込む事には、物理的な効果だけでなく、このように風情を感じるという大切な精神的効果もあるという事を思い出してほしいと思います。明け方ふっと外を見たら、花を咲かせた朝顔の生垣から月が見える。なんて素敵な光景でしょう。

 

 

雄花から咲いてゴーヤは実り終え枯れてゆけども雄花なお咲く (野上 卓)

 

風流な朝顔とは少し趣を変えて、こちらは同じくグリーンカーテン用の人気植物として知られるゴーヤです。そうそう、大抵の植物は実る前に花が咲き、実ったら花は散るかしぼむかが大半なのに、ゴーヤは実を成らせる雌花がしぼんでも雄花が残って咲き続ける。その不思議さと生命力の逞しさには、正直憧れを感じます。この歌も結句の「雄花なお咲く」に心意気のようなものを感じます。

 

 

刺しちがう歌などおらぬ空のした鶏頭はゆれて戦後はゆれて (松岡修二)

 

比喩と暗喩の交錯した独自のフィールドを持つ松岡修二さん、会員欄でいつもチェックしております。短歌の読みというのはいくつかあって、大きく分けて意味から情景を浮かべる読み方と、意味を越えたイメージを掴む読み方とがあると思うのですが、この人の世界は圧倒的後者。むしろ積極的に意味を解体して、そこにしかない世界を降ろすシャーマンのように感じています。鶏頭の赤と戦後という言葉の裏にしたたる血の香りがします。

 

 

古書店にわれ忽然と立ち尽くすある一篇の詩を読み終へて (鈴木秋馬)

 

親書が並んでいる綺麗な本屋さんももちろん好きですが、古書が店ごとに違う法則で所狭しと並べられている古書店も好きです。その理由はこの歌で詠まれているような事が実際にあるからです。知らない文章の1行のフレーズを立ち読みしていて、思わず引き込まれて立ち尽くす経験、これは「本を読む/書物を愛する」者の精神の原点であり、心の願望の具現でありましょう。文学とは本来恐ろしいものでもあるのです。

 

 

近未来 泡には割れる音がなくかなしみならば奥に触れたい (笹川 諒)

 

淡く繊細な世界が奏でる音、と、笹川諒さんの歌を勝手に評して毎月楽しみにしています。この歌も意味より先にイメージを掴むべき歌で、”泡”が象徴する儚くて掴めそうで掴めない世界観を静かに注意深く堪能したいもの。泡の割れる音のない近未来は静謐ですがどこか寂しい感じもします。或いは”泡”は人の心そのものか、文明に閉ざされてしまった心の奥に触れたい。切実な願いが切ない。

 

 

祈るときたましひは働いてゐるひとりを祈り世界を祈る (冨樫由美子)

 

祈りというものは静かで穏やかなものであり、そうあって欲しいと祈る私がいます。派手で賑やかなものが世界の色んな場面を覆い、一見世の中はセンセーショナルな出来事に動かされていると思いがちですが、人類の歴史が始まってから今までずっと続いてきたこの”祈り”実はこの魂の静かで力強い動きこそが人間の営みの根源をずっと支えてきたのだと、敬虔な詠みから想起します。「動く」ではなく「働く」としたところがとても良いですね。そう、何を欲してなくても心はずっと働いています。働く心が美しい詩や音楽をキャッチし、また生み出したりするのです。

 

 

 

 

 

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