「テラ」とは、集落の高台にある、無人の神社や祠の事を云う。
その形態を見ると、ご神体が弁財天や不動明王などの石仏であったり、鳥居があってどう見ても神社なのに「権現」という仏式名を持つものまである。
“テラ”は正に明治以前の神仏習合の名残を留める歴史の貴重な証言者なのだ。
以下は奄美本島にある無人の神社一覧*()内は祭神。
《名瀬地区》
・小宿厳島神社(市杵島姫命)
・小倉神社(祭神不明、神殿に石祠)
・根瀬部弁財天神社(市杵島姫命、布袋尊像)
・有良厳島神社(恵比寿像)
・竜王神社(市杵島姫命/八手弁才天石像※観音堂隣接)
・有盛神社(平有盛、ご神体は弁財天石像)
・稲荷神社(※現在廃社)
・小湊厳島神社(十六童子弁財天坐像)
・南州神社(西郷隆盛?)
《竜郷地区》
・秋名厳島神社(シマタテガナシ※お産の神)
・大勝厳島神社(市杵島姫命?)
・行盛神社(平行盛)
・今井権現(今井権太夫)
《笠利地区》
・用八幡神社(応神天皇、神功皇后、比売大神)
・蒲生神社(蒲生左衛門、境内に仁王像)
・佐仁厳島神社(市杵島姫命?十六童子弁財天木像)
・須野厳島神社(市杵島姫命?)
・宇宿神社(祭神不明、敷地内に毘沙門天か金剛力士と思われる石像在り)
・大親神社(与湾大親)
・里前秋葉神社(”アクワグンギン”火之迦具土神?)
・奄美姑神社(アマミコ・シレニク)
・赤木名厳島神社(弁財天石像)
・赤木名秋葉神社(”アクワグンギン”火之迦具土神?)
・赤木名菅原神社(菅原道真?)
・手花部厳島神社(市杵島姫命?仏像らしき木像在り)
《住用地区》
・川内菅原神社(菅原道真?石仏)
・山間厳島神社(市杵島姫命?)
・山間高千穂神社(瓊々杵尊?)
・山間権現(祭神不明)
・宮戸神社(祭神不明、鏡)
・氏守神社(祭神不明、鏡)
《大和地区》
・開饒神社(直川智翁)
・大和高千穂神社(瓊々杵尊、応神天皇、市杵島姫命)
《宇検地区》
・宇検弁才天神社(弁財天石像)
・宇検高千穂神社(瓊々杵尊?)
・名柄八幡神社(応神天皇?)
・平田神社(祭神不明)
・阿室厳島神社(祭神不明、役行者像?)
・屋鈍神社(祭神不明、鏡)
・湯湾岳山頂:大親神社(與湾大親)、奄美岳大師御堂(弘法大師、不動明王、地蔵菩薩)、二神降臨の碑(アマミコ、シレニク)
《瀬戸内地区》
・古仁屋高千穂神社(瓊々杵尊、応神天皇)
・須佐礼ハトンサキグンギン(祭神不明”グンギン”は権現)
・油井ガモウグンギン(祭神不明、同上)
・阿鉄厳島神社(祭神不明、市杵島姫命?)
・安室釜名称不明神社(石仏三体)
・古志厳島神社(祭神不明、市杵島姫命?)
・久慈高千穂神社(伊邪那岐大神、伊邪那美大神※アマミコ、シレニク?)
・花天氷川神社(素戔鳴命、奇稲田姫、大己貴命※八手弁才天像在り)
・篠川厳島神社(市杵島姫命)
・管鈍厳島神社(市杵島姫命、菅原道真、※不動明王?弘法大師?石仏多数在り)
・宮山神社(石仏)
・西古見金毘羅神社(鏡)
・網野子厳島神社(市杵島姫命/弁財天石像?※削げて判別不能)
・節子厳島神社(市杵島姫命、他二祭神不明※石像らしきもの)
・大屯神社(応神天皇、神功皇后、平資盛)
《加計呂麻島》
・実久三次・神社(実久三次郎)
・芝秋葉神社(祭神不明、鹿にまたがる石仏)
・瀬武高千穂神社(瓊々杵尊、応神天皇)
・徳浜龍宮神社(祭神不明)
・諸鈍大屯神社(祭神不明、石仏在り)
・渡連権現様(祭神不明)
・相撲の神様?(”天照皇大神”の文字が書かれた石在り)
・知之浦神社(祭神不明)
・俵権現様(祭神不明、石)
・俵火の神(祭神不明、石)
・瀬相権現神社(祭神不明)
クエスチョンマークを付けているのは、祭神を確定できなかったの、もしくは全国の例に倣って仮定したものである。
このうち「弁財天」「権現」またはご神体が石仏である神社は、かつて「寺」であった可能性が濃厚なものであり、集落を監視したり、役人や島役人、修験者達の詰所として、政治的/軍事的機能を有していた。
【鴉(15)】
【鴉(16)】
”テラ”がどのように機能していたかは、交易地として栄えてていた名瀬矢之脇町を歩けば想像出来る。
上の地図の、赤で囲った一帯が矢之脇町だが、海を正面に両脇に小高い山という、街を作るには絶好の立地である。
両脇の小高い山は、北側(現市街地側)を蘭館山といい、南側を弁天山という。
蘭館山は、読んで字の如く「オランダ人(西洋人は全て”おらんだ”と呼んでいた事に因む)の館があったから蘭館山」であり、弁天山は弁財天を祭っている厳島神社があった。
矢之脇町内には、更に高千穂神社があり(創建は明治3年)稲荷神社も建っていた。
蘭館山にも秋葉神社があったことが、昭和7年の地図に記されている。
当時の神社が、薩摩から来た役人や商人達だけのためにあった(島民は本土の風俗と同化することを禁じられていた)とはいえ、ひとつの町内に4つもの神社が存在していたことには違和感を覚える。
このうち、神社としての由来がハッキリしているものは、大阪屋という商人が個人的に建てた稲荷神社と、明治の後半に井根町に移った高千穂神社だけであり、弁天山の厳島神社と、蘭館山の秋葉神社の由来は今もって解らない。
更に明治30年の古い地図には、秋葉神社ではなく「大物主神」があったことになっている。
(蘭館山の「製糖異人館跡」と「大物主神」)
祭神の変化か混在があったらしき謎の神域と異人館が同じ山にあったこと事態が非常に興味深い。
大物主は古代史の謎を握る重要な神だが、ひとまず置いとくとして秋葉神社に焦点を合わせれば、祭神は「火加具土神(ヒノカグツチノカミ)」。
れっきとした神道の神でもあるが、秋葉権現という名を持つ仏教の神で“火伏せの神”として特にみ密教や修験道で信仰の対象として篤く敬われていた神格である。
反対側にある厳島神社の祭神は、航海の神である市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)だが、こちらの実体は「弁財天」という仏であり、密教系の水神。
弁天山にはかつてお堂があり、その内壁は経文がびっしり書かれてあったという。
秋葉神社も厳島神社も、そのほとんどは明治期に寺から神社になったものである。
【鴉(17)】
ところで、蘭館山に住んでいたのは、オランダ人ではなくイギリス人である。
建築家のオートロス、技師のマッキンタイラーという2つの名前が明らかになっているが、オートロスは明治維新後に新政府に雇われ、旧大蔵省造幣局など、様々な建築物を作っている。
(オートロスによる図面、旧大蔵省造幣局)
彼らが住んでいたのは幕末期なので、鎖国令に明らかに反していたことになるが、古代より様々な国の船舶が寄港したり漂着していた奄美である、もし問い詰められても言い逃れ出来る手段はいくらでも用意していたろうが、何よりも蘭館山や矢之脇一帯は、とにかく厳重に警備されていた場所であった。
蘭館山や弁天山にあったのは、恐らく監視所だったはずである。
イギリス人のいる異人館と麓にある最新鋭の西洋式工場を警備するための施設と、矢之脇の町の全てと、すぐ前にある船着場(現在の入舟町)を監視するための施設を、町を囲む山の高台に作れば、出入り口を固めることが出来る。
これは憶測だが、狭い区域にこれだけ神社跡が密集していることの理由を説明するには、これが最も有効な仮説だと思う。
更にこの仮説を裏付けるのは”抜け道”の存在である。
現在蘭館山の山頂部には、1962年9月3日に墜落した自衛隊機事故の慰霊塔が建っているが、その脇に未舗装の古道がずっと奥に伸びている。
この道は、最終的に山の向こうの朝仁新町や、更に山ひとつ向こうの小宿集落に着くが、反対側の弁天山とも繋がっている。
それだけではない。
かつて高千穂神社があった矢之脇公園の裏にも、山道に繋がっているであろう小さな登山口らしきものの痕跡がある。
どこへ繋がっているのか探ろうとしたが、奥は完全な私有地であったので断念。
高千穂神社(明治3年以前は寺であった)の裏手にそれぞれを繋ぐ連絡道があったとしたら・・・?
それは間違いなく一般庶民が立ち入ることが出来ない軍用路であろう。
【鴉(18)】
奄美の山は、薩摩と一心同体の巨大修験勢力である“鴉天狗”が支配し、蘭館山には西洋人であるところの大天狗がいた。
つまり上のような、典型的な「天狗の絵」の世界が、たかだか百数十年前まで現実に存在していたのだ。
今一度蘭館山の話になるが、秋葉権現と大物主神が何故同じ場所にいたかという謎は解けた。
大物主は、大陸から古代出雲へと渡ってきた神であるが、大陸の物質文明を神格化したものであると私は見ている(“物“は、「物々しい、物騒、物の怪」の“モノ”である)。
光り輝く姿をしているとも、蛇の姿をしていたとも云われるこの意思は、古代エジプトに現れ、その後旧約聖書や仏陀の物語などにも登場するが、それについては稿を改めてじっくり書かねばなるまい。
とにかく大物主は、「金毘羅大権現」という仏教の神でもあった。
(代表的な金毘羅大権現の像、まんま天狗である。)
高尾山等、修験道の霊場では、秋葉権現と金毘羅大権現は合祀されていることが多い。
(秋葉大権現も翼を持つ天狗の姿)
明治期の地図に「大物主」と書かれているのは、廃仏運動の影響によって、祠から金毘羅大権現の像が持ち出され、神社に着せ替えをしたためだろう。
蘭館山を登って最初に着く広場に、三塔の警察関係の慰霊碑があり、その背後の薮の中に朱塗りの無神祠がある。
私はこの広場に秋葉権現(火加具土神)を祀る本堂があり、祠に金毘羅大権現(大物主)が祀ってあったと考える。
その敷地の隣には、同じような広場が数cm高く造られている。
異人館はここに建っていたのだろうが、その面影は今や跡形もない。
【鴉(19)】
蘭館山にいた建築家のオートロス(トーマス・ウォートロス)は、アイルランドの出身である。
明治維新の黒幕として知られる”グラバー商会”トーマス・グラバーの誘いに応じる形で香港から鹿児島に渡り、薩摩藩のお雇い外国人として働いた。
その後明治政府の仕事を横滑り的に引き受けることとなる。
彼は正規の教育を受けた建築家でなく、実は独学で建物やその材料を作る手段を身に着けた”何でも屋”であった。
文明開化後の日本に本格的な西洋建築物が増えるに従い、彼の作ったもののことごとくが日本人の目にも「奇妙で時代遅れな感じ」に見えるようになったのだろう、新政府の工部省に籍を置いていたオートロスだったが、明治8年には解雇、失意のうちに上海に渡り、その後アメリカのコロラド州で銀鉱脈を発見して成功を収めている。
独学で建築術を身に着けたのは、それはそれで凄いんじゃないかとは思うが、とにかくグラバーが連れて来たこの男、素性は限りなく怪しい。
(蘭館山から出土した煉瓦)
(瀬戸内町伊目、老山家の”白糖石”)
(瀬戸内町久慈、白糖工場跡)
(蘭館山登山道脇に放置された基石)
そのオートロスが、島津斉彬の命により奄美に来たのは白糖を生産する工場建設のためと云われている。
白糖工場は、奄美市名瀬金久町(蘭館山の麓か?)、龍郷町瀬留、宇検村須古、瀬戸内町久慈の四箇所にあったとされているが、今ではほとんど跡形もなく、僅かに「COWEN」「STEPHENSON」等の銘の入った耐火煉瓦や、建築用の”刻み”の入った土台石が一部に散乱するのみである。
トーマス・グラバーがフリー・メーソンであったことは周知の事実。
坂本竜馬や五代友厚、そして三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎らを巧みに操り、明治維新を起こさせたとされるグラバーとて、上海にある東インド会社系列のジャーディン・マセソン商会の代理人の一人にしか過ぎなかった。
ジャーディン・マセソン商会は、イギリス資本(ロスチャイルド財閥系)の総合商社であるが、その実態は阿片と茶の売買で実益を上げ、アジアにおける植民地支配とイギリス本国への資金輸送の特命を帯びた組織である。
その経済活動の大本には、清には阿片を、日本には武器を供給することによって、極東地域を完全に掌握しようというロスチャイルドをはじめとする欧米貴族/資本家勢力の思惑があった。
当時の秘密結社フリーメーソンは、彼ら欧米利益共同体の交流組織であり、様々な人脈を通じて政治・経済・軍事・外交のあらゆる権益に絡んでいた。
以下に挙げる写真は、メーソンと日本、メーソンと奄美との関わりを臭わせる物証と、個人的に推定しているものである。
(奄美より植樹した蘇鉄の木※グラバー邸)
(グラバー邸「メーソンロッジ石柱」にあるフリーメーソンの紋章)
(グラバー低「メーソンロッジ石柱」)
(フリーメーソン・グランドロッジの”3本の柱”)
(蘭館山”くれないの塔”)
(1ドル札紙幣の”万物を見通す目”)
(蘭館山”くれないの塔脇、墜落事故モニュメント)
※「くれないの塔」は、1962年9月3日に起きた自衛隊機墜落事故の犠牲者追悼のために建設された慰霊塔であり、幕末期の異人館とは直接の関わりはないが、事故そのものの原因・犠牲者の数・日付等余りにも不自然な、あんまり好きではない言い方を用いれば、メーソンの思想の根幹になっている”オカルト”の臭いがプンプンするのである。
グラバーは何度か奄美を訪れており、岩崎弥太郎が名瀬の白糖工場跡地を所有した時期もあった。
維新の前後、その利権を巡る限りなく黒い取引が行われてたであろう奄美矢之脇町の事は、どういう訳か表の歴史で語られた事はない。
これが逆に怪しいのだ。
大物主が祀られ、フリーメーソンが関わっていた場所に、何故三柱鳥居にもメーソンの石柱にも見える三本柱の塔があるのか?
それ以外にも名瀬の街には、日本と世界両方の“闇の縮図”としか思えない物や動きが至る所に散らばっており、数え上げるとキリがない。
過去においてこれらはまるで、封じられたまま忘れられてきたかのように、歴史の裏側で時を刻み続けている。
【鴉(20)】
鴉天狗
丸十字
島津
修験道ネットワーク
大物主
フリーメーソン
そして十字架・・・。
入り込めば入り込む程、この島の歴史に絡む闇は深い。
文献や聞き取り、そしてインターネット等様々な情報を整理比較しても、肝心の真相は歴史の底流に沈んだままで、これまで表層に浮かぶことはなかった。
その闇の中には、かつて「由縁人(ユカリンチュ・富農や島役人)」「自分人(ジブンチュ・自作農民)」「家人(ヤンチュ・小作農、実質奴隷)」という身分に分けられ、互いの同胞意識に溝を刻まれた島の人々の、言葉にならない慟哭にも似た悲しい想いが閉じ込められたままである。
想いをがんじがらめにしている“縛り”は、今を生きる私達の生活にも、姿を変えて絡まっている。
薩摩藩は今はなく、明治期に奄美群島は鹿児島県に組み入れられた。
それから戦争によって沖縄と共に割譲された奄美の戦後は、困窮とアメリカの軍政統治によって本土との経済的格差が作られた。
アメリカ特命全権大使(国務長官)ジョン・フォスター・ダレスによる「ダレス声明」によって復帰した直後に「奄美振興特別法」が成立。
「経済的に立ち遅れた奄美を、本土並みに復興させる特別予算」という“カネ”は、恩恵に預かれる者とそうでない者との間に、微妙な亀裂を常に走らせ、人々は徐々に歴史を忘れ、代わりに享楽や新宗教や、思考の要らない「奄美らしさ」が与えられて現在に至る。
敵は薩摩などではない。常に姿を晒すことなく民から搾取を繰り返している「鴉」の本体は、この国の中枢にいる。
それは神話の時代にまで遡る“がいこく”からの侵略者達が作った見えない権威や権力である。ハッキリと言ってしまえば縄文人という本当の日本人を征服し、支配者となった「大和朝廷」が今もあるのだ。
それはまたこれまで次々と押し寄せてくる“がいこく”の手引きをやってきたし、今もやっている。
五歳の時に見た「天狗」は、弁天山の入口近くの松の枝の先に座っていた。
その光景は不思議であったが、天狗そのものは至って普通の人間の顔をしており、何かを訴えるでもなく、ただ“そこ”にいて遠くを見ていただけで、特に怖いとは思わなかった。
今にして思えばだが、彼はさり気なく”そこ”にいることによって、自らの存在を誰かに気付いて欲しかったのかも知れない。
母から「喜入のひいじいちゃんは高千穂神社の水神様と弁天山に足しげく通っていた。高千穂も本殿じゃなくて必ず裏から入って水神様だけを拝んでて、拝み山も蘭館山も登らなかったけど、一番遠いはずの弁天山には何故か登って拝んでた。」とは、今年の正月に母から初めて聞いた話である。
それを聞いて「わーっ!」と思わず声を上げた。
あの天狗の顔は、そういえば曾祖父や、母方の祖父や、今の私と同じ”系統”の顔であった。
喜入の苗字は島津家庶流として、早くから家臣として働いていた家の家名である。その苗字を持つ人物は、島に赴任してきた役人の名簿の中にある(喜入休兵衛、喜入休衛門の2名)。
そのどちらか、或いは名簿には記されていない”喜入何某”が、修験者として弁天山に詰めていた”鴉”の一員だった可能性は大いにある。
あの弁天山の麓にいた”天狗”は、もしかしたら子孫である私に「自分達のことをいつか表に出して、歴史のを解明して欲しい」と訴える先祖の姿であったのかもしれない。
明藩政期を生きた人々の話が、リアルな生活体験として語られていた明治生まれの曽祖父達は、或いは”何か”を知っていたのだろうが、それは同時に「忘れたい記憶」でもあり、子孫に語るのは余りにも重く、時に残酷な話であったのか、彼らの世代は、明治やそれ以前の話はほとんど語らず世を去った。
我が先祖は鹿児島県大島郡竜郷村瀬花留部(現瀬留)の”氏籠(ウジコモリ)”と呼称される、村が一眺できる高台にあり、代々砂糖の取纏役であったらしい。
伝聞によると、三代、重雄はオランダ人(機械技師オートロス製糖技師マキシム・タイラ)より白糖の製法を習得し、島津藩に用いられ、瀬花留部の海辺の前浜と呼称される場所に、黒糖を白糖にする製造工場を建てた責任者であった。
藩役人が検収・検査に来て宿泊し、我等幼少の頃(昭和四・五年)に床の間に槍及刀掛があった。
明治維新で工場は取りこわされ、現在でも煉瓦のカケラ、石炭屑が在り、其の場所を村人はキカイと呼称している。
又、本家の屋敷に当時の工場建設に使用した残りのオランダ瓦と称する耐熱硬質の煉瓦がある。
これは、つい先月(2011年9月)に目を通した喜入の家系図(則家家系図)の序文に書かれていた(則家は竜郷の由緒家、喜入家とは婚姻と養子縁組で何度も結ばれている。私の曽祖父、喜入清四郎は則家から喜入家に婿入りしている)事実だ。
何と私の先祖が直接白糖工場の管理運営に関わる人間であった。
こういった話は、調査を続けてゆくに従ってまだまだ出てくるだろう。
さて、長く続けてきた本文は、あくまで私個人の探究の成果に過ぎず、故にまだまだこの島に埋められている真実には程遠い未熟なものかも知れない。
私は自分自身の課題として、この文章の補完や続きの考察、及び検証を行うつもりだが、同時に同じ課題をこの文を読む全ての方に託したいと思う。
(了)
あとがき~参考文献
~ あとがき ~
島津家というのは、全国ネットワークの修験道勢力の代理人であった。
その背後は深い闇だ。
調べて出て来るのは、思いもよらない事ばかりである。
「トンデモ」の類だと思っていたフリーメーソンや裏朝廷、イエズス会陰謀説などを、今一度真面目に検証せねばならない。
写真は奄美市名瀬にある大島支庁の施設の隣にあるカトリック教区長館である。
大島支庁はかつてアメリカ統治下にあった群政府庁舎であり、教区長館は修道院だった。
軍政府の翻訳職員をしていた母方(喜入)の祖父の弟は、奄美大島が日本復帰した直後に脳出血で倒れ、一命は取り留めたが、その後ずっと重い脳障害を患いながらここで雑用夫として働いていた。
祖父の弟の家族は敬虔なクリスチャンであったが、軍政府勤務時代を知る人は「クリスチャンどころか宗教の類は面倒臭がってあまり関わろうとしなかった」という。
奄美は人口におけるカトリック信者の数が長崎に次いで2番目に多いが、その理由はハッキリとは解らない。
ただ、ここには明治時代から宣教師が集中的に訪れてカトリックは地域に根付き、終戦直後は米軍と共に相当な影響力を持っていたという事実がある。
私はカトリックを批判するつもりは毛頭ない。
過去の修験道についてあれこれと書いてもきたが、これもまた現在の修験道や趣味として山伏修行をしている人達とは何の関係もないことだと断言したい。
ただ、宗教を隠れ蓑に陰謀や工作を行う勢力は、宗派を問わず存在していたし。
それこそが、例えばカトリックの中に紛れ込んで欧米帝国主義の先兵となった宣教師達であり、日本の裏権力の手足となって動いた”鴉”であろう。
私がここまで、多くの私見を交えつつ書いてきたこれらの文章は、余りにも多くの空白に閉ざされ、宙ぶらりんになっている歴史の真実を白日の元に導くための、ひとつの考察のサンプルである。
願わくは本文をお読みになった皆さんに、ある時は参考として、ある時は比較批判の対象として、引き合いに出して頂きたいと切に願うものである。
過去と繋がっていない現在はない、未来もまた然りである。
我らの先祖達は、ある時は権力に支配される苦痛に喘ぎながら、またある時は社会の“闇”の側に置かれ、多くの人を苦しめてきたのかも知れない。
しかし、どんな立場や境遇であれ、先祖達は必死で生き抜き、その結果として残された私たちがいる。
故に過去の空白を埋めて真実を導きだすことは、先祖達の想いに応えることである。
私達は、真実に少しでも迫るための思考と探究を止めてはならない。
-参考文献-
「碑のある風景」籾芳晴著.南海日日新聞社刊行
「奄美大和村の年中行事」古典と民俗学の会.白帝社
「奄美大島諸家系譜集」亀井勝信編.国書刊行会
「奄美の歴史入門」麓純雄著.南方新社
「近世奄美の支配と社会」松下志朗著.南島文化業書
「奄美の債務奴隷-ヤンチュ-」名越護著.南方新社
「名瀬物語」泉俊義著.春苑堂書店
「名瀬大正外史」池野幸吉著
「『朝仁誌』私考察」椿吉盛著.ノア企画制作
「薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考」沖縄大学地域研究所編.芙蓉書房出版
「揺れる奄美、その光と陰」稲野慎著.南方新社
「奄美返還と日米関係-戦後アメリカの奄美・沖縄占領とアジア戦略」ロバート・D・エルドリッヂ著.南方新社
「豪商伝―薩摩・指宿の太平次」南原幹雄著.角川文庫
「明治維新のカギは奄美の砂糖にあり-薩摩藩 隠された金脈-」大江修造著.アスキー・メディアワークス
「鹿児島藩の廃仏毀釈」名越護著.南方新社
「奄美・吐喝喇の伝統文化-祭りとノロ、生活-」下野敏見著.南方新社
「薩摩民衆支配の構造-現代民衆意識の基層を探る」中村明蔵著.南方新社
「砂糖の世界史」川北稔著.岩波書店
「秦氏の研究-日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究」大和岩雄著.大和書房
「赤い盾-ロスチャイルドの謎-」広瀬隆著.集英社
「シオン長老の議定書」四王天延孝原訳、太田龍補訳・解説.成甲書房
「日本古代氏族人名辞典」坂本太郎・平野邦雄監修、吉川弘文館
「暴かれた古代史-二千年の涙-」山本建造原著、山本貴美子著.福来出版
「古代日本、謎の四世紀」上恒外憲著.学生社
「シルクロードと唐帝国」森安孝夫著.講談社
「日本の15大財閥―現代企業のルーツをひもとく」池浩之著.平凡社新書
第一次朝仁天川作戦(1)
朝仁海岸の左手にある山。
麓に“お地蔵さん”があって、
頂上には地元の人が“一本松“と呼ぶ巨大な松の木がそびえております。
この異様な雰囲気の山に今回は挑んで来ました。
ちっちゃい頃から気にはなっていた場所ではありましたが、最近になって「これは行かねば!」という衝動が沸々と湧いて来ておったのです。
そうこうしているうちに友人からもらった「朝仁史私考(椿吉盛著)」という本に
『天川ウスジ(尾根)にある一本松(通称扇松)から北西の方向から北西の方向約百メートルの海、朝仁、小宿と前半周が見渡せる嶺の先端に(弁財天が)安置されて真北の方向を向いている。』
という誠にビンゴな一文が掲載されており、衝動が確信に変わったわけであります。
「山の上に弁財天」とくれば、掘らんわけにはいかんでしょう。
装備一式を揃え、早速一本松を目指して一人山へと分け入りましたが…。(つづく)
第一次朝仁天川作戦(2)
朝仁の山は小さい頃の遊び場ではありましたが、一本松のところだけは何故か登った記憶がありません。
というわけで、登山口を探すところから始めました。
まずは目星を付けておいた県道沿いの入り口から登ってみましたが、ここは完全な畑道でありましたので撤収。
山裾の裏通りを歩いているうち「ここだ!」という入り口が、ちょいと奥まったところにありました。
登山口からしばらくしたら、まずは近代の遺跡が(!)。
浄水場の跡ですね。
経験上、浄水場跡地の近辺には、ほぼ間違いなく、さらに前の時代の遺跡があります。
地形的に、水が集まる場所というのは、やはり人々の生活にとっても重要な場所なのです。
浄水場と、例えば信仰の場所という風に、目的は違っても、自然の力というものを人々がそこに感じるから、何かが造られたり、祀られたりしてたのでしょう。
とにかく“近いぞ!”という感じがビンビンしますが、行く手にはやはりというか何というか、様々な形の障害が待ち受けておりました。
第一次朝仁天川作戦(3)
浄水場跡から、山道は複雑に枝分かれしておりました。
事前の調査によると、かつてこの一帯は鉱山だったらしく(銅山ともマンガンともニッケルとも聞きましたが、どれがホントなんでしょう?)、旧道らしきものと坑道らしきものとが、迷路のように複雑に入り雑じってます。
行き止まりからターンして分岐点に戻り、反応が薄くなってゆく道からは一旦引き返し…、何となく方向感覚も麻痺しだしてきたその時。
分岐点にまた戻り、辺りを見渡そうとした瞬間に、かけていた眼鏡がシュッと飛ばされてしまいました。
「ありゃ、おおごと!」と思って体の重心を動かした瞬間に足が滑り、そのままズルズルズルー!!
と、私は4mほど下にある川辺まで、派手に滑り落ちてしまいました。
泥まみれになりましたが、幸いかすり傷ひとつありません。
んでもって飛ばされた眼鏡も、少し離れたところで無事発見。
とりあえずひん曲がった眼鏡をかけ直して位置を確認しましたが、これがどうにも判りません。
あれだけ派手に滑り落ちたんだから、斜面に痕跡ぐらいあっても良いはずなのに、これが見当たらない。
で、辺りを見渡せば道がない…。
「これは世にいう遭難というやつか!?いや、それともケンムンに化かされたってやつかぁ~!?」
と、思ってみたりしましたが、まぁ冷静に考えれば目の前に川があります。
川があるってことは、川沿いに下って行けばどっかに出れるということです。
途中いきなり滝になっていて、その時点でア~ウト!ってこともあり得るかも知れません、また、水辺はハブが出る確率が極めて上がりますので、いきなりカプッとヤラれてア~ウト!ってなことも十分あり得ますが、まぁその時はその時。
とりあえず泥まみれになったシャツとズボンだけ脱いで、清流でジャブジャブ洗ってみました。
絞って叩いて、絞って叩けば、何とか着れるようになるってもんです。
ついでに天然水をペットボトルに補充してグイッと一杯。コレが美味い!
そしておもむろに一服、コレも美味い!
「何余裕ぶっこいてるんだ、はよ川くだって家に帰れ!」
と、お思いの方もいらっしゃるでしょうが、私とってこれは冷静さを取り戻して直感センサーを調整する大事な一時。
おし、とりあえず服も何となく乾いたし反応するのは何故か下流、ハブや猛獣の気配は…とりあえずない。
今日のところはここにて撤収!そう、こんな状況で深入りしても、多分ロクな目には遭いません。
気合いを入れて撤退開始、ザブザブと川を下って歩いてたら、妙なことに「近いな…」という気がどんどん強まってきました。
そして…。
第一次朝仁天川作戦(4)
少し下った向こう岸に、細い山道がありました。
直感は「間違いない、ここだ!!」と言います。
ここを登って、松の並木道を抜けると、少し開けた場所があって、そこに一本松、さらに進んだ平地にコイツ
つまり“天川ウスジの弁財天”があるんでしょう。
改めて私は呼吸を整え、直感に
「さて、どうする?」
と問います。
答えは
「今回は待て」。
でした。
道の向こうには蛇の気配、それもこの世ならざる厄介な蛇が、待ち構えている気配があります。
そういや私はここに来るまでに結構大変な目に遭いました。
たまたま無傷で、たまたま落ち着いているだけで、色んな意味でのダメージはしっかりと受けております。
無理に行けば多分死ぬでしょう。
あんまり言いたくはありませんが、この山は恐らく“やられた”形で命を落とした人がたくさんいます(直接聞いて知っている例はほんの最近の数件だけですが、地元の人が語らずに封印されてきた“事件”はまだまだあるでしょう)。
果たして川の上流の方と崖の上の方からも、別の妙な気配が近づいてきました。
帰りましょう。
私の目的は、こういう得体の知れない“縛るモノ”と戯れたり、ましてやコイツらを神だの霊だの言って不思議ぶることではありません。
むしろ歴史的な考察からコイツらの正体を解き明かして、然るべき所に落ち着かせることにあります。
今回は、ウスジに繋がる道をとりあえず見つけることが出来て「そういうモノがうようよおった」ということが実感できた。
それだけで上々です。
気を張って歩くうちに、県道を行き来する車の音が聞こえ、地形も徐々に緩やかなものになってきました。
これで一安心、浄水場跡に繋がる通路を見付けて登山口にやっとこさ合流できました。
第一次朝仁天川作戦完了。
とりあえず体験を持ち帰って、検証しましょうね。
第二次作戦の前に、少々歴史のお勉強を致しましょう。
たまにはしんみりと
『アルゼンチンのギター音楽』(NAXOS)
今日は雨、しとしとの秋雨です。
朝から訳もなく感傷的な気分であります。
会社の車でCDでも聴けりゃいいのですが、カーステなんてそんな洒落たものは付いておらず、ますます切なくなってしまいました。
こんな時はジャズじゃなくて、もっとこうベタなぐらいに切なさがドワ~!と前面に出てるのがいい。
そこへいくとラテン音楽、なかんずくアルゼンチンものなんかは心の中の琴線がある部分目指して、まっしぐらに飛び込んでくれますね。
たまにアツくなり過ぎてキケンなものもありますが(もちろん良い意味で、ですよ。ピアソラなんか正にそれです)、しんみりと切なさに浸りたい時はコレを聴きます。
クラシックギタリスト、ビリャダンゴスの独奏による、アルゼンチン音楽名曲集。
オーバーヒートギリギリ手前のクールな緊張感に満ちた演奏が、聴いてるコチラの感情を優しく揺さぶります。
近況報告
とは言ってもただ運んで終わりではなく、得意先との商談から品物の管理から何から何まで一人で全部やらねばいけません。
朝は6時ちょい前から、休憩挟んで夕方まで、遅い時は8時過ぎまで、体と頭と神経をフルに使って、それであっという間に一日が終わってしまいます。
年末は、更に大変なことになるとか…。
今頃になって「俺ぁエライとこに来ちまったかなぁ?」と、思っておりますが、これも“何か”だと思ってます。
最近特に強く想うのは祖父のことです。
高良の祖父は戦争に行き、戦地で病死したと聞いております。
享年は、ちょうど今の私と同じ35才。
大変な事や苦しい事、難儀でしんどい事、その他諸々は(戦争体験とは比べ物にならない、かわいいものでしょうが)、過去を生きた私の先祖と、今を生きる生身の私との大切な繋がりなのかも知れません。
不意に会ったこともない、顔もよく知らない祖父のことを急に想ってしまうということは、やはりアチラから「頑張れよ~!」と、エールを送ってくれているんだと思って、さて、これから「地獄の年末」と戦ってやります!
続・近況報告
お久しぶりです皆様、あけましておめでとうございます。
しばらく忙しい日々が続いた結果、20日に体を壊して仕事を退職せざるを得なくなりました。
とても残念で悔しいですが、これも“何か”なんだろうなと、今は思ってゆっくりと休養しております。
しかしまぁ去年と今年は、私にとって大変な激動の年になると予測はしてました。下手をすると「生きるか死ぬか」ぐらいの試練に遭うだろうと。
どっこい私にはまだまだやらなければいけないことがたくさんありますし、恩を返さねばならない人もたくさんいます。
今年は仕切り直して再出発の年。
そういう気持ちで臨みます、皆様どうぞ今年も宜しくお願い致します。
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歩いて行く
「今日は外に出たい気分」と思ってwaltzさんまで歩いて行きました。
店長と学生時代の話なんかをグダグダしていたら、肝心の目的を忘れかけてしまったいました。
ほんでもって奄美にいるのが勿体無いぐらいにイカす寸止海峡の新しいCDを購入して、今、彼らのゴキゲンな8ビートからじゅわっと匂う“青春”(きゃあぁぁ~!)を浴びています。
高校の頃の記憶といえば、何か悶々として、ムカムカしてたなぁ~、ぐらいのものしかありません。
「果たしてそれを青春と呼んでいいのだろうか?」なんて愚問を、イイ歳になっても繰り返してますが、何と言いますか寸止海峡の音楽は私に優しく「それでいいんだよ」と、言ってくれてるようないないような…、そもそも青春なんてものは具体的に俺の中にあったのかなかったか、よくわからんっちゅうことは、今この瞬間を「青春だぜ!」と言い切ってしまって語弊はないのか…?
うん、悶々とするなぁ(笑)
まぁいいか。
ありがとう寸止海峡!おじちゃんはてくてくと歩いていきますね。
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スタート
ユタ神様のところには、「いつか行くことになるんだろうな~…」と、漠然と思ってはおりました。
けれども正直言ってあんまり“そういう方面”は如何なものか?という気持ちが半分と、行く時はそれなりの覚悟が固まった時だろうな…、という予感が半分あって、なんだか良く分からないままであったのですが、今回の事で「あぁ、きたか…」と覚悟が決まり、とあるユタさんのところに恐る恐る電話を入れました。
「あの~…ちょっと見て頂きたいのですが…。」
とだけ言ったら
「あ~はいはい、じゃあ今日の1時過ぎにいらっしゃい」と
最初は私だけ行く予定で、嫁には「まぁ行ってくるわ」と言って家を出たんですが、ちょっと歩いたところで「私も行く!」と突然の電話があり、一緒に行くことになりました。
ユタというのは島に古くから伝わる自然崇拝のシャーマン、つまり占いとか祈祷とか、そういうことをする人達のことで、島の人達は「神様」といいます。
私達夫婦は、互いの病気のこととか、今後の生活のこととか、子供が出来るかとか、あらかじめ質問をいくつか用意していました。
呼び鈴を押して「ごめんくださーい!」と呼ぶと、奥から「どうぞあがんなさ~い」と、サラッと招かれて、立派な神棚がある部屋に案内され「はいはい、そこ座ってね、ほら、足なんか崩さんば!」と、まぁどこにでもいるような島の普通のご老人が白い着物を来て椅子に座っております。
ユタさんは緊張している私達二人をしげしげと眺めてから「うん、分かった…。」みたいな顔をして、そこからは私達の質問もなにも、完全に“試験”のような展開でした。
まず、名前と両親の郷里を尋ねられて、一通り答えたら
「あ~、あんたなんかは二人して神高いわ。両方の神様が強すぎて、いろんな障りがあったでしょう?」
「はい、今も二人で病気です。」
「うん、アンタなんかこのロウソクの灯りを見てごらん…、今度はこっち(神棚に向かって右側の、“カミグチ”の書いてある紙の方)を見てごらん。」
丸い灯りが、私にも妻にも見えました。
黙ってその灯りを見ていると「うん、二人とも見えてるね」と。
“神様”は、まるであらかじめ段取りしてたかのように、逆にこちらに色々な質問をしてきました。
「アンタ(妻)は島に来て何年ね?」
「12年…です。」
「ここにくる前に誰か他の神様に見せたことはある?」
「いいえ、初めてです」
「アンタなんか子供はおるの?」
「いません、病気とか色々あって作れないままです。」
「そうだろうねぇ…、アンタも水神、旦那も水神だからねぇ…。」
「アンタ(私)は身内に神様やっとる人は?…」
「母方の祖父の家のひいじいさんと母方の祖母の家のひいばあちゃんが水神様拝んでたみたいなんですが、今はいません…。」
「そうか…、今おらん。う~ん…」
というような問答が長く続いた後、いきなり
「あとは、…アンタなんかどんなにする?」
と訊かれました。
つまり「神拝みをする気があるのか?」ということです。
「いつか神様のところに行く時は、そういう事になるだろうと覚悟はしてました。あの…、白い着物を着る(つまりユタ神になって神事や他人を診たりしなければならない)というわけじゃないですよね?」
私が答えて妻がうなずいたら
「アンタなんかの神様がこれでおさまれば、それはやらんでもいい。多分おさまるはずじゃが」
そう言ってもらい、ものすごく安心しました(笑)
「では、よろしくお願いします。私達は私達の神様を拝みます」
と、お願いしましたら
「はい。そしたら頭を下げて~…」
と言ってようやく神事が始まり、清められた塩と神酒と刀とカミグチでの祓え浄めの儀式が終わり
「はい、上等。目を開いてロウソクの灯りを見てごらん。」
ロウソクは一本ですが、不思議なことに灯りが七つ立って見えます。
「灯りが七つ見えるよね?どっちの目がよく見える?」
二人同時に「左です」と答えたら、私に「アンタも左ね?これは珍しいね~…。」
と不思議がられましたが、まぁそれは父方母方どちらの“引き”が強いかということで、こっちがびっくりするようなことはなかったので、ここでも安心(笑)
結論から言えば私達夫婦は水神様で、妻は海、陽を祀り、私は山、月を祀りなさいということで、鏡を頂きました(これは自分自身の写し身、自分自身の神さんを写す鏡である。と、二人で解釈してます。)。
「神棚の用具はね、あそこの工具屋さんに、これこれこういうことだからっち言えば分かるが。全部で何千円かじゃが。はい、頑張ってね。そこらに生えてる木みたいにね、毎日お日さまに向かって頭を下げて、お水を頂いて、自然の神様とアンタなんかのご先祖様とにありがとうございます。っちいう気持ちを忘れらんようにしてね!」
ということで、祀りの作法等を教えてもらったものを細かく紙に書いてもらい、それ持って入った道具屋さんで「あれまぁ夫婦で神様ね!?はげ~珍しい。男の水神様ね!?はげ~珍しい~…。」とか、まぁ珍しがられまして(笑)
我が家に神棚が出来ました。
左が妻で右が私
とはいっても、これは宗教でもなければ、私達夫婦も占いとか祈祷とか、そんなことをする気はありません(元よりできません・汗)。
まぁこれで自分自身の気持ちに定点が出来て、人だろうが物だろうがなんだろうが、人生の中で出会う多くに感謝し続けて、笑って仲良く健康に過ごすことが出来ればなぁ~、と思っております。
まずは身近なことから始めましょうか!
と、思い立って今日は散歩して髪切って昼寝してインコと語って、家事をして音楽をたくさん聴きました♪
いっこづつ、少しづつ、慌てずに、騒がずに、ひとつひとつ“生きて”行こうと思います。
キャラメルマキアートとベシェ翁
お気楽に行きまっしょい♪
とゆうことで
今日は「お誕生日おめでとう」のメールや電話が方々からありました。
お店を閉めてもう半年以上経ちますが、遠方の常連さんからもたくさん頂いて、感謝感激雨霰!皆さん本当にありがとうございました(;_;)
姉から気の利いたプレゼントが届きましたよ↓
大好きな紅茶。
アールグレイとキャラメルマキアート(写真)!
アールグレイに関してはもう中毒者であります。
バロウズでいつもアールグレイ飲んでたなぁ~…。
キャラメルマキアートはコーヒー豆入りの不思議な紅茶ですが、ミルクティー派の中では絶大な人気を誇る隠れ人気の銘柄。
紅茶とコーヒーの香りの絶妙なブレンドが生み出すほんわかした丸い香りが大変よろしい♪
丁度抽出してたら、お友達のsuちゃんがプレゼント持って来てくれたので、「ちょうどいいや、お茶にしようぜ!」と、小一時間ほどまったりとお喋りして過ごしました。
「うん、この香りにはコレだ」
と、セレクトしたのは、ジャズ史におけるソプラノ・サックスのパイオニア、シドニー・ベシェ翁のCDであります。
ゴキゲンなスウィング・サウンドに乗せて「ブヒョ~♪」と独特のヴィブラートを効かせまくったベシェ翁のソプラノ。
う~ん、コーヒーと紅茶の中間な香りがほんわり漂う音であります、特に「Blue Horizon」辺りのブルース・ナンバーなんかよろしいな~…。
幸いsuちゃんもスウィングとかジャグバンドとかその辺の音好きな人なので「いいねコレ♪」と、音楽談義にも良い感じに花が咲きました。
キャラメルマキアート、一杯目はミルク入れた甘めの配合で、二杯目は純粋に香味を楽しむためにストレートで賞味しました。
よろしいな~♪
私はストレート派になりそうです。
あ、黒砂糖ひとつ入れてさりげなく甘くしてもいけるかも知んない♪